「武」のスポーツと小悪ボス。日本社会が失った「諫言」の厳しい奉公人精神
アマスポーツの資本主義化
スポーツ資本主義については前にも書いたが、昨今、国際的なスポーツには巨大な金が動くようになり、オリンピックの放送権は高騰し、FIFA(国際サッカー連盟)幹部の汚職が摘発されたりもした。これもグローバリズムによるのか、マルクスが指摘した「商品」への欲望より、スポーツや芸能の「アイドル人気」が経済を動かす時代なのだ。たとえばフィギュアスケートの羽生選手などは、観客動員数、グッズの売れ行き、CM出演など、大きな経済効果をもった存在である。 プロスポーツは露骨に金が絡むからともかく、アマチュアスポーツは本来クリーンな文化的な存在であるべきだ。しかし現実には、オリンピックを見ても、世界陸上や世界水泳や世界柔道の大会を見ても、地味なスポーツの代表であった卓球やバドミントンやラグビーの人気を見ても、プロとアマの差はなくなりつつあり、アマチュアスポーツにも大きな金が絡むようになっているのである。 アイドル人気という点では差別化できないから、アマチュアにも資本主義の論理が働くのは当然だ。逆に、その経営体制がプロスポーツのようにはチェックされていないので、甘い汁を求める人たちによる、組織の私物化ということが起きるのであろう。
「実力ボス」から「小悪ボス」へ
一時代前、田中角栄、真藤恒、江副浩正、堤義明といったその世界の大物ボスが次々と訴追された。 確かにそれなりの不法あるいは不当な事件が発覚したからである。しかし彼らは、戦後の復興から成長へ、全力を傾注して日本社会を牽引してきた人たちである。意思と力があまりにも強かったために、良識の枠を踏み破ったのだろう。実際、彼らが追放されたあと、日本社会は小物ばかりが要職につき、国力そのものが低下してしまった。「角を矯めて牛を殺す」という格言を実感したものである。 しかし今問題になっているのは、そういった「実力ボス」ではなく、単なる「小悪ボス」である。そして考えてみたいのは、「実力ボス」がいなくなって、他人の顔色をうかがう「忖度人間」ばかりになったために、こういった「小悪ボス」がはびこったのではないかということだ。 つまりこれは、ボスたちと選手たちの問題というより、小悪ボスたちの「周囲にいる人間たち」の問題ではないか。