あの2004年のときと23年は違った 岡田彰布へ星野仙一から「次はお前や。それで平田のことやけど…」
「次はお前や。お前が監督になる」
そのシーズン終盤、星野さんが体調を崩しているという話が聞こえてきた。確かにそういえばそうか、と思い当たる節はあったけど、まさか優勝して、辞めることはないやろ。そんな感じでいたときに、これも星野さんから直接「話があるから」と呼ばれた。 なんやろ? 見当がつかないまま向き合ったら、突然「オレは今年で監督を辞める」となった。そこから「次はお前や。お前が監督になる。頼むぞ」と続いた。 もしそういうことになれば、次は田淵幸一さん、という話も出ていたので「田淵さんでは」と問うと「違う。お前がやるんや」と言い切って、そのあと「そこでひとつ、頼みがある」となった。 こちらは気が動転しているのに、その頼み事とは……。「平田のことやけど」。平田勝男(現一軍ヘッドコーチ)は当時、星野さんの専属広報。「まあ、スタッフとして、ユニフォームを着させてくれ」と告げられた。 そこから話はドンドン進み、日本シリーズでダイエーに3勝4敗で敗れたあと、星野さんが正式に辞任され、オレの監督就任も発表となった。平田は現役時代、二遊間コンビを組み、苦楽を共にした仲やったし、お互いのことをよく分かり合えていた。オレは平田にヘッドコーチを頼んだ。すると星野さん、平田ヘッド案を聞いて「エッ、コーチでとは言ったけど、ヘッドコーチって、大丈夫か?」と笑っていたのを覚えている。
チームの若返りを進めた2004年
それでスタートした監督1年目。優勝した翌年やから重圧がかかるやろ、という周りの声はあったけど、オレはさほど感じなかった。ただ優勝しているから、チームを大きく変えることはできなかった。 2年連続優勝の期待が大きかったけど、オレはまず次のシーズン、2005年に向けて、徐々にチーム改革をすべきとの結論に至った。もし優勝できなくても、2年目になる翌年は必ず優勝できるように。戦いをおろそかにしたわけではないが、結果的にはBクラス4位に。その中でオレはチームの若返り、活性化を進めていった。 特に投手陣やった。ベテランが多くて、藪恵壹、伊良部秀輝、下柳剛、外国人投手のトレイ・ムーア。2003年は20勝を挙げた井川慶を除けば彼らが主力を形成していたが、ここを若くて伸び盛りの投手を中心に据えなければ、との考えがまとまった。その素材は豊富にいたわ。エースの井川を筆頭に安藤優也(現一軍投手コーチ)、福原忍(現二軍投手コーチ)……。そこに藤川球児、久保田智之(現一軍投手コーチ)、外国人のジェフ・ウィリアムス。翌年のJFK誕生の下地はここで生まれた。 1年目の4位は決して無駄ではない。ファンの期待に応えられなかったけど、オレは2年目、2005年を見ててくれ、との計算ができていた。