国宝指定9年の松江城天守 築城主・堀尾吉晴の思惑にじむ構造と「仕掛け」
【連載】城旅へようこそ
全国には12の天守が江戸時代から残り、そのうち五つが国宝に指定されている。姫路城(兵庫県姫路市)、松本城(長野県松本市)、彦根城(滋賀県彦根市)、犬山城(愛知県犬山市)、そして松江城(島根県松江市)の天守だ。2015(平成27)年、松江城の天守は実に63年ぶりの国宝天守となった。 【画像】もっと写真を見る(10枚) 松江城の天守は、壮麗というより質実剛健な印象だ。現存する12の天守のうち総床面積は2番目に大きく、大地に腰を据えたようなどっしりとしたたたずまい。落ち着いた黒色の壁に、破風(はふ)の曲線美や懸魚(げぎょ)の繊細美が上品な華やぎを添えている。 1644(正保元)年に江戸幕府が諸藩に作成させた「出雲国松江城絵図」(国立公文書館蔵)を見ると、一重目と二重目に比翼千鳥破風、三重目に唐破風が描かれており、現在とは少し異なる豪華な装飾が壁面を彩っていたようだ。
秀吉旧臣の堀尾吉晴が新天地で築城
松江城は、豊臣秀吉の重臣だった堀尾吉晴が1607(慶長12)年から築いた城だ。吉晴は織田信長と秀吉に仕えて武功を挙げた人物で、豊臣政権においては中村一氏(なかむらかずうじ)や生駒親正(いこまちかまさ)とともに要職を担った。秀吉が天下統一を果たした1590(天正18)年からは、東海道上の要所である浜松城(静岡県浜松市)を任されている。 1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの後、子の忠氏が出雲・隠岐(島根県東部・隠岐郡)24万石を拝領し、出雲の中心であった月山富田城(がっさんとだじょう、島根県安来市)に入城。忠氏は新たな拠点として松江城の築城を計画したが急逝してしまい、跡を継いだ忠晴が幼少だったため、吉晴が後見人となり実質的に松江城と城下町を整備した。秀吉のもとで実戦経験を積み、城づくりの技術を磨いた吉晴だからこそ、立派な天守が建つ見事な石垣の城が築けたのだろう。 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は政治的実権を握り、1603(慶長8)年に江戸幕府を開府する。しかし豊臣家との決着がつく1615(慶長20)年までは、全国的に軍事的緊張下にあったはずだ。外様(とざま)大名である堀尾氏はなおのこと、生き抜く策を模索していたに違いない。松江城は、新天地における政治・経済の中心地である一方で、戦いに備えた軍事施設でもあり、さらに幕府に恭順の意を示す城でなくてはならなかっただろう。吉晴の苦悩に思いをはせると、胸に込み上げるものがある。 松江城の天守は、四重五階地下一階。正面から見たとき三重目に見える屋根は、出窓のように突出したいわばフェイクだ。五重に見えて実は四重なのも、幕府への配慮からだろうか。