スティーヴ・アルビニ、ナイジェル・ゴッドリッチ……名プロデューサーが築いた90'sオルタナティブロックの潮流
Primal Scream×アンドリュー・ウェザオール、Radiohead×ナイジェル・ゴッドリッチ
アンドリュー・ウェザオール ずっとアメリカンオルタナティブの話をしていたところにイギリスのインディーズシーンの話。別の国の別の道で起こっていたことで直接的な因果関係は薄いが、パンク以降のオルタナティブな音楽の変動という括りで、アンドリュー・ウェザオールと、Primal Scream『Screamadelica』(1991年)の存在は欠かせない。 1980年代後半~90年代、Joy DivisionやNew Orderが所属していたマンチェスターのレーベル Factory Recordsが運営していたクラブ・ハシエンダなどを中心に、イギリスの北部ではアメリカ・シカゴからやってきたハウスミュージックが台頭した。ロンドンでは、スペイン・イビサ島で行われていたパーティ、DJ Alfredoのバレアリックと呼ばれたスタイルに刺激を受けたダニー・ランプリングやポール・オークンフォールドらがダンスフロアを沸かせるようになる。そんなクラブの盛り上がりはほどなくしてレイヴへと発展し、イギリス全土の若者を巻き込んだ、セカンドサマーオブラブというムーブメント、アシッドハウスの大流行へと発展。そういったダンスミュージックカルチャーの変遷から受けた影響を自分たちの音楽性に採り入れたロックバンドの作品も数多く生まれた。 その流れを象徴する作品の一つがPrimal Screamの3rdアルバム『Screamadelica』で、そこにプロデューサーとして名を連ねたのがアンドリュー・ウェザオールだ。前年にシングルバージョンがリリースされていた「Loaded」は、Primal Screamの2ndアルバム『Primal Scream』(1989年)収録曲「I’m Losing More Than I’ll Ever Have」のアンドリューによるリミックス。原曲のレイドバックしたサイケデリアと呼応するように、ブレイクビーツよりは緩くベタッとしたビートとパーカッションを貼りつけたことで、酩酊感が増している。原曲のボーカルをなくし、冒頭に配したホーンセクションを軸に展開。The Emotions「I Don‘t Wanna Lose Your Love」のタイトルコーラスとの掛け合わせが高揚感を煽る。そんなPrimal Screamや、Happy Mondays「Hallelujah (Club Mix)」、My Bloody Valentine「Soon (Andrew Weatherall Mix)」など、アンドリューが手掛けたプロデュース作品やリミックス曲がきっかけとなり、多くのロックファンが、ダンスミュージックに魅了されていった。 そして、その後のアンドリューの動きもまた実に興味深い。彼はセカンドサマーオブラブを通じて、その名を揚げたにも関わらず、以降ダンスミュージックのトレンドの真ん中で勝ち馬に乗ることはなく、独自の道を歩む姿勢で、DJとして、ミュージシャン/プロデューサーとして、2020年2月17日にこの世を去るまで活動を続けた。1992年に立ち上げたThe Sabres of Paradiseではハウスやテクノだけでなく、ダブ/レゲエなどさまざまな要素を採り入れながらスリリングなサウンドと美しいアンビエンスを交差させていく。続くTwo Lone Swordsmenでは、初期はよりアブストラクトな方向に舵を切りつつ、後期はロカビリーやパンクにアプローチ。ソロではダンスパンクやサイケデリック、クラウトロックなどの自身のルーツに目を向けたダンスミュージックを自由奔放に繰り広げた。その間、2000年代前半~中盤に起こったロックとダンスミュージックを掛け合わせたムーブメント、2010年代前半のサイケデリックリバイバルなどはおかまいなしの、圧倒的な現場感覚と実験精神。それができたのは、1970年代~80年代のパンク/ニューウェーブやダンスミュージック/エレクトロニックミュージックといったカルチャーをシームレスに渡り歩き、それらの勃興や過渡期、衰退を体験したアンドリューだからこそ。そしてそのオリジナリティはPrimal Screamをはじめ、多くのアーティストやDJに影響を与えた。 ナイジェル・ゴッドリッチ Radioheadの“第6のメンバー”とも言われるナイジェル・ゴッドリッチは、1971年にロンドンで生まれた。10代の後半からSAE(School of Audio Engineering)でサウンドエンジニアリングについて学び、レコーディングスタジオでの下積みを経て、1994年にThe Stone RosesやXTC、Feltなどのプロデュースで知られていたジョン・レッキーのもとで、Rideの3rdアルバム『Carnival Of Light』にエンジニアとして参加。その後、ナイジェルはこちらもジョンの誘いで、Radioheadの2ndアルバム『The Bends』(1995年)のエンジニアを担当したことがきっかけとなり、続く1997年リリースの3rdアルバム『OK Computer』でバンドとの共同プロデューサーに。以降すべてのRadioheadの作品と関わることになった。 『OK Computer』がリリースされた頃、オルタナティブロックは本来の独自性、荒々しさやローファイな魅力を失い、産業化していた(水面下でのインディーズレーベルの作品はおもしろかったが)。イギリスではブリットポップが終焉へと向かう。そんな1990年代後半~2000年代にかけてのイギリスのインディーズシーンでは『The Bends』や『OK Computer』の、オルタナティブロックともブリットポップとも毛色の異なる、物憂げなメロディラインから色濃く影響を受けた作品が多く出てくる。その最たる例が1999年にリリースされたTravisの2ndアルバム『The Man Who』だ。そこに起用されたプロデューサーの一人はナイジェルだった。 1stアルバム『Good Feeling』(1997年)と比べると、ギターの歪みは抑えられ、より優しいサウンドに。その奥行きは明らかにアップデートされそれぞれの音がクリアに響き、フラン・ヒーリィ(Vo/Gt)のソングライティングセンスと歌心のポテンシャルを一段持ち上げている。『The Bends』と『OK Computer』に関わったナイジェルはまさに適役。結果、『The Man Who』はリリースから約3カ月経って全英1位を獲得した。 そして一躍売れっ子プロデューサーになったナイジェルだが、関わる作品に積極的に介入して意見をぶつけ整然としたサウンドに仕上げるスタイルから、オーバープロデュースという評価も聞かれ、アーティストとぶつかることも少なくなかった。2001年、『Is This It』というデビューアルバム1枚で停滞していたインディーズシーンを一気に好転させたThe Strokesは、続く2ndアルバム『Room On Fire』(2003年)でナイジェルを起用するが、バンドと衝突を繰り返しレコーディングは頓挫。ミニマルなロックンロールサウンドでNYから世界を驚かせた『Is This It』の次なる一手として、豊かなソングライティングセンスを打ち出すにあたり彼を起用する人選まではよかったのかもしれないが、シナジーは生まれなかった。また、ポール・マッカートニーのアルバム『Chaos And Creation In The Backyard』(2005年)では、レジェンド中のレジェンドに臆することなく言いたいことを言う。それに対してポールもかなり頭にきたようだが、最終的にはジョン・レノンを引き合いに出しナイジェルを称賛している。