江戸時代の「吉原ガイドブック」には下世話な話が満載だった!
一冊につき発行されたのは一〇〇~一五〇部程度と、ささやかな数だったようですが、新しい遊女の情報をうしろに加筆して何度か増補再版しているものもあります。当時は買うより貸本を利用する方が多かったといいますから、部数よりかなり読者が多かったように思います。 部数が少ないうえに内輪ネタが多いため、読んでいたのは関係者だけなのではないか、と推測する研究者もいます。出版が下火の頃はそういうこともあっただろうと思いますが、年に二〇種ほども出されていた頃などは、とても内輪だけに向けて書かれていたとは思えません。のちに江戸土産としても喜ばれたという吉原細見に比べれば、かなりニッチなものであったのは間違いないですが。 刊行が急に多くなった寛文の頃は、散茶(さんちゃ)女郎(安価に遊べる遊女の位)が登場し、客の大衆化がはじまった時期です。そのため、遊女評判記の需要も増したのでしょう。吉原細見のように地図を付したり、並び順をわかりやすくしたりと、初心者にわかりやすい趣向を凝らしたものも登場し、出版合戦が繰り広げられていくこととなりました。 刊行が盛況だった頃の遊女評判記を読んでいると、「この作者は本当に性格が悪いな!」と感じることが多々あります。理由はさまざまですが、よくあるのは、前に出版された遊女評判記に対する口撃がひどいこと。 「あそこの評判記でこの遊女は情に厚く心優しいと書かれている。だが、実はこんな悪事をしている。あの作者の目は節穴だ!」といったふうに、先に出された遊女評判記の誤りを非難するのは、遊女評判記の刊行がはじまった頃からありました。一種の様式美です。寛文以降はこれが更にヒートアップして、「誰かをけなさないと遊女評判記は書けないのか?」というくらい非難合戦が白熱していきます。 同時に、遊女に対する批評も辛辣(しんらつ)になっていきます。「心悪(あ)しき」「面体(めんてい)悪しき」といった文言はもちろん、「どこやら人喰犬(ひとくいいぬ)のようだ」(『吉原よぶこ鳥』万代)とか、「肥えて油がつき、豚の毛を毟(むし)ったよう」(『讃嘲記時之大鼓(さんちょうきときのたいこ)』しかの)なんて記述までみられます。遊女の欠点を書くというのは、評判記としては当然のことでしょう。しかしそういった枠におさまらないような侮蔑(ぶべつ)的な悪口を吐いたり、ゴシップばかりを詳細に記すような評判記がどんどん増えていきました。 確かに、ただ褒めるだけでは、読者は面白がらなかったかもしれません。他の作者に対する批判も、売るためのひとつの趣向だったのでしょう。その証拠に、自分が書いた評判記を別人の作のように偽って批判する、なんてこともされていました。でも、書かれる側の遊女にとってみれば、盛り上げるために悪口を書かれたり、擁護されたりと、たまったものではなかったでしょう。