モンゴルの象徴にして手頃な遊牧民の家「ゲル」が直面する“都市生活の壁”─国民のアイデンティティは生き残れるか
放浪都市だったウランバートル
ウランバートルにあるモンゴル最大の青空市場で、何十万人のモンゴル人が「家」と呼ぶ、おなじみの白いフェルト張りのテント型住居に、客が足を止めて見入っている。 ここで売られているのは、丸い天井をかたち作るドーム状の木枠、壁の骨組みになる伸縮自在な菱格子の木材、断熱と防水のための羊毛フェルトに白い布カバーなどの各パーツだ。 ゲル(そのまま訳せば文字どおり「家」)はモンゴルの多くの地域で、移動生活を送る遊牧民にいまも住居として利用されている。彼らは先祖代々の開拓地で羊の群れの世話をして数ヵ月を過ごすが、季節が変わるとゲルを解体し、古代の道を移動して運搬する。ゲルは90分もあれば容易に解体・梱包・組み立てが可能なため、移動生活者にとってはすこぶる実用的で効率の良い住居なのだ。 かつてのモンゴルはこうした移動生活が深く染み付き、現在首都に定められている場所でさえ、過去のある時点まで移動を繰り返していた。 もともとウランバートルは17世紀に造営されたウルグーと呼ばれる移動寺院および巡礼地で、1920年代にモンゴルが衛星国として旧ソビエト連邦と同盟関係を結ぶまでそれは続いた。ソ連の都市計画立案者は、辺境の遊牧社会を定住型都市生活社会へと変える、恒久的で組織化された社会主義モデル都市建設の構想を描いた。 だが、ソ連式アパート街区が市中心部にあるにもかかわらず、上空からウランバートルを見て目につくのが、丸いゲルの白い点々が郊外へ拡大しつつある光景だ。 これらのドーム型住居は、米国の郊外型住宅の庭よりも広い囲い地の中に建てられている。多くは木や石の土台の上に組み立てられ、冬季は厚いフェルト生地で壁面が隙間なく覆われ、熱が逃げないよう地面の下で密閉される。夏季は風を入れるために壁のフェルトが掘り起こされ、激しい降雨に耐えられるよう、防水カバーで覆われる。 ゲルのオーナーは限られたスペースをとことん活用する収納の達人だ。伝統的なチェストや木の戸棚に調理道具、子供のおもちゃや学用品など、家庭で使用するこまごまとした品物すべてを整頓する術を身につけている。 テント天頂部に設けられた舷窓のような天窓(トーノ)と、出入り口から入る自然光が照明代わりだ。両親の寝台はソファ兼用で、子供たちは毎晩、クッションパッドと毛布を広げて眠る。 モンゴルは砂塵と嵐で悪名高い。それは突然、砂あらしや冬の吹雪、夏の雹(ひょう)となって襲いかかる。ゲルはこのような荒天でも耐えられるが、摂氏マイナス40度(華氏マイナス40度)に達するモンゴルの厳しい気候では、最大限の断熱性能を引き出されたフェルト材でもまだ役不足で、床に敷き詰めるためのラグで壁面を覆って断熱性能をさらに強化したりする。 ゲルの設置費用は600万トゥグルグ(1778ドル、約27万円)前後が一般的だ。ゲルを組み立てる用地は通例、結婚後にモンゴル国民に無償で提供される(が、ウランバートル市当局は現在、ゲル用地の新規割り当てを禁じている)。ゲルの外周は6~7メートルで、最大6人まで居住できる。手頃で、組み立ても簡単なため、多くの場合、最貧困層であってもゲルの家を所有することは可能だ。 一部のゲルオーナーには典型的なデザインに飽き足らず、窓や床暖房を追加して、キャンプリゾートや集会施設、さらにはカフェとしても使用可能な木造タイプへ改造する者までいる。ときには水道と床暖房が完備された、直接出入り可能な浴室が追加されることもある。(続く) このように目的に応じて改変自在なゲルではあるが、ウランバートルの郊外型ゲル群は汚染と貧困の象徴であると同時に、間に合わせのゲル地区じたいが深刻な問題を引き起こしてもいる──。ゲルは都市と折り合いをつけることは可能なのか。後編では、ゲルを「近代化」することで解決しようとする人たちを見ていく。
Terrence Edwards