「雑草を引き抜き、躊躇なく口のなかに入れた」瀬古利彦(早大)を導いた“カリスマ監督”とは何者だったのか? 箱根駅伝の歴史に残る“師弟関係”
「雑草を引き抜き、躊躇なく口のなかに入れた」
中村と瀬古の物語は『箱根駅伝ナイン・ストーリーズ』(生島淳著、文春文庫)に詳しい。中村は、瀬古が入学した1976年に、弱体化していた早稲田大を復活させるために請われて監督に復帰した。このとき63歳。前述した館山合宿で、中村は部員を前に、突然こんな話を切り出した。この年の早稲田大は箱根駅伝で予選落ちし、本戦には出場していなかった。 「いまの早稲田が弱いのは君たちの責任ではない。OBのせいだ! 俺がOBを代表して謝る」というが早いか、やおら自分の手で自分の顔を殴り始めたのである。やがて中村の口の辺りから血が流れだしたという。 エキセントリックな中村は「強くなるには何にでも素直にならなければいかん。俺はこれを食ったら世界一になれるといわれたら、食う」というと、足元の雑草を引き抜き、土のついた根っこを躊躇することなく口のなかに入れたエピソードも残している。
瀬古を魅了した中村の“カリスマ性”
この中村のカリスマ性に瀬古も洗脳されてしまう。新入生の瀬古を見た中村は、「君は中距離ランナーだが、世界一になれるのはマラソンだ。私も命を懸けて面倒を見るからついて来られるか」と声をかけた。その真剣なまなざしに、瀬古は思わず「はい、お願いします」と返事をしたのである。当初、中村の監督の任期は2年間の期限付きだったかが、瀬古が入学したことで8年に延びていた。 この年、1977(昭和52)年の第53回大会で、瀬古は1年生ながら2区を任された。順位は区間11位。タイムは1時間16分58秒。早稲田大の総合順位は13位で、シード10校のなかには入れなかった。そして、わずか1か月後に瀬古が挑んだのが自身初めてのマラソン挑戦になる京都マラソンだった。結果は「目の前が黄色くなって」と大失速。それでもフラフラになりながら完走を果たした。記録は2時間26分0秒。 瀬古の箱根駅伝とマラソンへの挑戦はこのときから始まった。翌年、2年生になった瀬古は12月初旬の福岡国際マラソンに出場。成績は日本人トップの5位で、記録は2時間15分0秒。 3年時には同じ福岡で2時間10分21秒のタイムで優勝。4週間後の箱根駅伝では2区を1時間12分18秒の区間新記録で走り抜き、早稲田大を総合4位に押し上げる原動力になっている。
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