「雑草を引き抜き、躊躇なく口のなかに入れた」瀬古利彦(早大)を導いた“カリスマ監督”とは何者だったのか? 箱根駅伝の歴史に残る“師弟関係”
鶴見中継所には瀬古の“影武者”も出現
翌1980(昭和55)年にはモスクワ五輪が開催される。ストイックな表情を崩すことなく、まるで修行僧のように黙々と走る姿は、いやがうえにもテレビ桟敷の日本人老若男女の胸を打つ。モスクワ五輪前年の1979(昭和54)年12月の福岡国際マラソンは、モスクワ五輪の代表を決める最終選考会を兼ねていた。瀬古はライバルの宗茂・猛の兄弟を抑えて優勝。念願のモスクワへの切符を堂々ともぎ取ったのである。 4週間後に行われた、瀬古にとっては最後の箱根駅伝となる1980年の第56回大会で、またしても2区の区間記録を更新する。1時間11分37秒。前年を41秒も上回る好タイムで、いまや「早稲田の瀬古」は日本人なら誰もが知っている「モスクワの星」になっていたのだった。 この大会、2区の最後の上り坂で、伴走車のジープに乗った中村はハンドマイクで早稲田大の校歌『都の西北』を高らかに歌い上げた。中村にいわせると、これは卒業していく4年生に向けての「はなむけ」なのだそうだが、瀬古はこの『都の西北』に「早稲田のユニホームを着て走る最後でしたから、あれは泣きましたね。あれ(都の西北)だけでホント走れちゃう。一生残ります」(『箱根駅伝・世界を駆ける夢』より)と述べている。 瀬古人気はピークに達していた。この大会、2区を走り終えた瀬古が上半身裸のまま伴走車のジープに乗りこみ、両手を大きく広げて沿道のファンに応えている写真が残されている。ちなみに、鶴見中継所で待つ瀬古にメディアが集中するのを避けるため、フードを頭にかぶせた瀬古の“影武者”まで用意されていた。
記念大会優勝の翌年、中村は不慮の死を遂げた
このような盛り上がりの一方で、1980年のモスクワ五輪は同年5月24日に日本のボイコットが正式に決定した。ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議する政府の意向にJOC(日本オリンピック委員会)も従わざるを得なかったのだ。 箱根駅伝は1984(昭和59)年の第60回記念大会を迎える。過去最多の20校のなかには東京大、東京学芸大の名前も見えるこの大会で総合優勝を果たしたのは中村監督率いる早稲田大だった。じつに30年ぶり10度目の栄冠だった。 瀬古は、もっとも脂の乗り切った時期に「檜舞台」を踏めなかった。同じく1984年、ロサンゼルス五輪に出場したが、2時間14分13秒で14位に終わっている。瀬古と中村がつくり上げた時代は、すでに過去のものとなりつつあった。 中村は翌1985(昭和60)年5月、釣りに出かけた新潟県の魚野川で岩から足を滑らせ川に転落し、不慮の死を遂げている。享年71だった。 《第3回も公開中です》
(「Number Ex」工藤隆一 = 文)
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