「和=枯山水」? 日本オリジナルの自動車デザインとは何か
後述する状況証拠から見て、この曲面は「風」や「水」の流れをカリカチュアしたもので、この「かな文字」の墨跡の様なたおやかさに日本デザインへの意識が見え隠れする。問題は前端部の力強さと後半のたおやかさが反発して、一台のクルマとして融和しきれていないことだ。だからこの二代目アテンザは、やりたいことも志もよくわかるが、残念ながらそれを消化しきれていないものになっている。 しかし、三代目の現行でその印象は変わる。線に頼ることを止めて、全てのうねりを面のしなりに置き換えたのだ。その曲面は一連のフェラーリが持つキンキンに張り詰めた緊張感でもなければ、クリス・バングル時代のBMWの、服のドレープのような重い抑揚でもない。
前述の様に、これは一連の「魂動」デザインの一貫で、マツダはこの形をヒョウの疾走感に範をとったものだという。言葉的に見れば「魂動」は「鼓動」であり「生命」を出発点にするものだろう。「鼓」を「魂」に置き換えたのは、日本のアニミズム観に則り、魂を宿す器としてのクルマを意図したものだと思われる。 初代の「梁」という人工的、論理的構築物から、二世代をかけて自然の造形へのモチーフのシフトが行われてきたのである。そしてその面のしなり方の奥底に「和」の意識が伺える。
デザインコンセプトカーの葛藤
「和」という意味では、マツダは2003年の第37回東京モーターショーに「KUSABI」という日本語由来の名前を持つコンセプトカーを出品し、2005年の第39回には「SENKU」を、2006年には「NAGAREシリーズ」という3台のコンセプトモデルを発表している。 流石にこれだけ一定のネーミングが続くとマツダが「和」を志向し始めたことに筆者でも気づく。「KUSABI」と「SENKU」はデザインそのものから「和」のイメージを受けることはなかったが、「NAGARE」シリーズのモチーフはまさに「風や水の流れ」であり、フロントホイールの踏ん張りを強調するデザインには二代目アテンザを彷彿とさせるものがある。筆者はこの「NAGARE」からデザインの方向性が「和」にシフトしたのではないかと思っている。 しかし、マツダのデザイナーはこの「NAGARE」シリーズこそ魂動デザインのスタートラインではないかという筆者の問いに否定的である。彼らの説明によれば、NAGAREシリーズは線に頼った構成で、そのデザインは表層的なものに過ぎない。魂動デザインは「形そのものの美しさ」「厚み感」「ソリッドさ」を基本言語に構成されており、全く別のものなのだと主張するのだ。 この強い否定の根拠をたどって行くと、そこに当時のマツダの社内事情が垣間見える。つまりこういうことだ。当時、マツダのデザイン統括責任者はオランダ出身のローレンス・ヴァン・デン・アッカー氏が務めていた。ネイティブではない彼の日本理解は、やはり欧州人から見たそれであり、日本人から見ると、それはどうしても表層的に見えた。 NAGAREシリーズのボディサイドにあしらわれた模様の様なラインは、枯山水がモチーフなのだそうだ。枯山水をボディに描いて日本オリジナルという単純な手法を、日本人デザイナーたちは容認できない。おそらく、彼らの目からは、形そのものは欧州の発想に見えたのだと思う。だから日本発のデザインはドアの模様なんかではない。もっと形の本質にオリジナリティがなくてはならないはずだという思いは強かった。 実は、枯山水のようなカリカチュアされたデザインのやり方そのものは世界的にポピュラーである。かつてのジャガーのあの英国然としたデザインはアメリカ人が見た英国だし、フェラーリのイタリアらしさもまたそうだ。 リアルな日本は「FUJIYAMA」「GEISYA」ではない様に、本当の英国らしさは古いローバーや、TVRに潜み、本当のイタリアらしさはランチアのセダンに宿っていたりする。しかしそれでは他国の人たちにはわからない。訴求する商品性が低すぎるのだ。 だからマツダの日本人デザイナーたちの違和感が分かる一方、ローレンス・ヴァン・デン・アッカー氏の言うそういうあざといデザインの大切さもよくわかる。ましてや正攻法で、日本人に違和感のない、かつ売れる日本オリジナルのデザインを作り上げるのは大変なことだということも想像できる。