平日は会社員、休日はバンドマン。自己流スタイルを貫き続けた、the原爆オナニーズTAYLOWと「パンクの本質」
会社員の自分もバンドマンの自分も“パンク”
しかしthe原爆オナニーズが活動を開始してから間もない1980年代中頃、いわゆる“インディーズブーム”が巻き起こり、TAYLOWの周囲でもメジャー進出するバンドが続出する。そんな動きを見ても、当初の考えが揺らぐことはなかったのだろうか。 「ま、バンド名がバンド名なんで、ないなと思ってました。その頃になると、メジャーレコード会社の人とも知り合いになっていたんで、『TAYLOWくんのところはどうする?』って話が出ることはあったけど、最終的にうちはそういうバンドだって理解してくれたから。 当時、メジャーのディレクターやプロデューサーも、面白いぐらいに原爆のライブを見にきてくれたんですよ。で、ひと暴れして、『良かったよ。お疲れさん』つって帰っていく。不思議な感じでしたよ」 平日は会社員、休日はバンドマンという生活は、頭の切り替えが必要なのではないかと問えば、そうでもないとTAYLOWは言う。それは“パンク”というくくりの中で、すべてが合致した自己だからなのだそうだ。 「自分の人生、最後に楽しかったかと思えるかどうか。『俺はパンクやっててよかったのか?』みたいなことになるでしょ。僕はこういうやり方にしたから、最後に『よかったよ』と思えるはずだから」
the原爆オナニーズ・TAYLOWのアナザーサイド、会社と家庭
会社員としての様子を尋ねると、こんな話をしてくれた。 「上司も面白い人でね。入社3年目くらいからバンドを始めたから、土日にライブをやって疲れて、月曜は会社のデスクでぐったりとしてる。それを見て『(週末)バンドやったの? 気分悪そうだから、お前、今日はダメだな』って(笑)。不思議な人でね。理解がありました。 社内の夏祭りでは、原爆で演奏もしましたよ。お客さんはみんな社員だから、カバー曲を入れて。みんなが知ってるローリング・ストーンズやT-レックスの曲をやった。ただし全部、原爆テイストにアレンジしてたから『うるさい音楽をやっとるな、お前は』って言われたりして。 最近になって多様性多様性と言われとるけど、当時の方が間口が広くて、寛容だった気がしますね、僕には。なにしろ上司は戦争に行ってるから。許容範囲がでかいんでしょうね」 しかしそんな会社員生活も、体調の問題があって53歳で早期リタイヤした。退職を考えているとき、妻に「会社は辞めてもいいけど、バンドは辞めないで」と言われたそうだ。どんな奥さんなのか、聞いてみた。 「結婚してから、今年で31年。普通というか、頭のいい人ですよ。原爆のライブを見にきてて、向こうが声をかけてきて知り合いました。バンドマンの特権みたいなものです、シンプルに。 結婚式に出席した奥さんの友達もパンク好きだから、こっちの招待客を見て『原爆オナニーズのメンバーがいる!』って騒いでた。当たり前なんだけど(笑)」 TAYLOWは会社を辞めても、妻に負担を強いているわけではない。 「ずっと働いてたおかげで、会社員をやりながらバンドをやると決めた最初の考えは、やっぱり間違っていなかったと思ってます」 結成から42年の長きにわたり、コンスタントに活動してきたthe原爆オナニーズ。“栄光か破滅か”にベットするのではなく、現実的な選択をすることによって生み出されたその安定感は、かつてTAYLOWが導き出したパンク哲学に裏打ちされていたというわけだ。 パンクとは何か。TAYLOWの話はさらに続いた。 文中敬称略。以下、第2回へ続く。