平日は会社員、休日はバンドマン。自己流スタイルを貫き続けた、the原爆オナニーズTAYLOWと「パンクの本質」
バンド参入当時、すでに社会人だったTAYLOW
売れないバンドマンの人生は厳しい。 まとまった収入がないのでアルバイトで食いつなぎつつ、ブレイクを夢見てバンド活動を続けるが、非情にも年月は無為に経過するのみ。生活は荒んでいく一方。誰もが想像するステレオタイプは、そんなところだろう。 the原爆オナニーズは違う。人気があるとはいっても、世間一般の人が思う“ブレイク”とはほど遠い立ち位置で活動を続けているのに、メンバーの生活は安定している。 TAYLOWは、the原爆オナニーズとして活動を開始した1982年当時、すでに普通の会社の正社員だった。以来ずっと、平日は会社員、休日はバンドマンという二足の草鞋を履き続けてきたのだ。 「1980年の2月から3月に、ロンドンでいろんなパンクバンドのライブを見て、頭をぶちのめされて帰ってきました。そんでそのまま、4月に就職です。普通の会社に就職したわけだし、自分でバンドをやるということは頭になかった。ただ、ロンドンで感じたパンクの思想を、どうやってみんなに広めようかと考えていました。 バンドだけでやっていこうと考えたことは一度もないけど、the原爆オナニーズで活動するようになってからもその気持ちはずっと同じです」 当時の日本に、メディアを通して伝わってくるパンクの情報は限定的かつ断片的だった。そうした切れ切れの情報をつなぎ合わせ、日本の初期のパンクスは独自のスタイルを築きつつあったのだが、情報不足や誤解によってチグハグなパンク像が生まれていたことは想像に難くない。 ロンドンから帰ってきたTAYLOWはサラリーマンとして働きながら、以前より知り合いになっていた地元・名古屋のザ・スタークラブやロッカローラなどのバンドのライブに顔を出し、メンバーにロンドンの最新パンク事情を伝えていく。 それはバンドの音から始まり、ファッションやライブでの暴れ方(ノリ方)、そしてパンクの根底に流れる哲学まで多岐にわたった。