虎ファンが屈辱の言葉「心にグサッと」 わずか1登板の不振…傷ついた“ニセモノ扱い”
中田良弘氏は1991年から再び低迷期へ…V争いの1992年は1登板
グサリと響いた……。1992年の阪神はヤクルト、巨人と優勝を争った。最終的にはヤクルトにかわされ、巨人と同率2位に終わったが、若手の亀山努外野手&新庄剛志外野手の“亀新フィーバー”でも大いに盛り上がった。そんなシーズンに元阪神投手の中田良弘氏(野球評論家)はわずか1登板。「自分のボールが放れていなかった……」。1990年に10勝をマークしたが、以降は厳しい状況続き。1993年の春には何ともショックな出来事もあったという。 【写真】戦力外後にプロポーズ… セ・リーグ選手と美人妻のラブラブ2ショット 中田氏はプロ11年目の1991年シーズンから、また力を発揮できなくなった。「(1990年に)10勝した年に頑張りすぎて使い果たしました」と言って笑った。右膝痛、右肩痛、右腕血行障害を抱えながら投げてきたが、そこに右肘痛まで加わり「回復力も遅くなった」という。「気も張っていただろうし、1回寝かすと起こすのが大変なんですよ」。 それまでは時間こそかかったものの、何とか“起こせた”。だが、この時は手強かった。1991年は開幕2戦目(4月9日巨人戦、甲子園)に3番手で登板したが、フィル・ブラッドリー外野手と原辰徳内野手に連続本塁打を浴びるなど、1死も取れずに打者3人に3安打3失点でKOされる最悪スタート。結局14登板、0勝1敗、防御率8.05に終わった。亀新フィーバーが巻き起こった1992年はわずか1登板で0勝0敗、4.50。2軍戦には投げていたが、1軍の戦力にはなれなかった。 「2軍では精神的にも楽だし、調子が悪くても抑えられたりするけど、自分のボールが放れていませんでしたからね。1軍が優勝争いしている時に上がれなかったけど、まぁ上がったところで結果はわかるんで、そこまで(1軍に)加わりたいとかも思いませんでしたね」。それほどコンディションが最悪だったということだろう。それでも必死に立て直そうとしたプロ13年目、1993年のオープン戦では何ともつらい場面に遭遇した。