男子11人、女子4人の大家族で愛人もいた貴族とは? 紅茶アールグレイの由来になった伯爵家のお家事情
分家から内務大臣と外務大臣を輩出
イギリス政治に偉大な足跡を残した「グレイ」は、2代伯爵のあとには、むしろ分家のほうに現れたのかもしれない。 2代伯チャールズのすぐ下の弟が、海軍大佐だったサー・ジョージ・グレイという准男爵である。その長男ジョージ(1799~1882)は政治家となり、偉大なる伯父と同じホイッグに属した。1846~66年の20年間のうちの大半の時期、彼は内務大臣を務めている。このときにイギリス内務省は近代的な官僚組織として再編された。まさにサー・ジョージは近代内務省の育ての親ともいうべき存在だった。彼のあとに3代目の准男爵を継いだのが孫のエドワード(1862~1933)である。12歳のときに父を失ったエドワードは、祖父から「高貴なるものの責務(ノブレス・オブリージュ)をしっかりとたたき込まれた少年だった。 20歳でその祖父から准男爵を継承し、23歳のときに庶民院議員に当選したエドワードは、30歳で外務政務次官に抜擢される。これ以後は、外交のエキスパートとしての彼の政治家人生が本格的に始まる。1905年、43歳のときにはついに自由党政権の外務大臣となり、フランスやロシアとの協調関係を補強した。しかし時代は風雲急を告げる事態へと変わっていく。
幣原や近衛も尊敬したグレイ外相
1910年代に入り、バルカン半島をめぐるオーストリアとロシアの勢力圏争いが激化していた。グレイ外相はロンドンで国際会議を開き、事態の収拾に乗り出した。 しかし1914年6月28日のサライェヴォ事件で、皇位継承者を暗殺されたオーストリアはセルビアに最後通牒を突きつけていく。それぞれの背後にドイツとロシアがつき、最終的にはイギリスもドイツに宣戦布告せざるを得なくなっていく。その重責を議会で背負わされたのがグレイ外相だった。8月3日の夕方に議会で演説を終えた彼は、外相執務室に戻り、窓の外を眺めながらこうつぶやいた。「ヨーロッパの街という街から灯(あかり)が消えていく。そして我々は生涯それを見ることはないだろう」。翌日イギリスは大戦に突入した。 グレイは1916年末に辞任するまで11年の長きにわたり外相を務めた。それは連続在任記録としては最長のものである。外相から退く5カ月ほど前に、彼はグレイ子爵(Viscount Grey of Fallodon)に叙せられた。 このグレイを尊敬してやまない日本の政治家がいた。ひとりは戦後に首相を務めた外交官出身の幣原喜重郎。彼はグレイが外相に就くにあたり、所有していた株式のすべてを売却した彼の外交官としての潔さに感服した。もうひとりが近衛文麿。公卿の最高峰に位置する家の出である彼は、イギリスの政治家のなかで学識教養ともに高く、その生活も非常に雅趣に富んでいるグレイの姿に感銘を受けていた。 グレイは政治一辺倒ではなく、田舎でのフライ・フィッシング(毛針釣り)や野鳥の観察もプロ並みの趣味人だったのだ。こうした趣味人の血統は、あるいは曾祖父の兄「アールグレイ」から引き継いだのかもしれない。 君塚直隆 1967年東京都生まれ。立教大学文学部史学科卒業。英国オックスフォード大学セント・アントニーズ・コレッジ留学。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。東京大学客員助教授、神奈川県立外語短期大学教授などを経て、関東学院大学国際文化学部教授。専攻はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。著書に『立憲君主制の現在』(2018年サントリー学芸賞受賞)、『悪党たちの大英帝国』、『ヴィクトリア女王』、『エリザベス女王』、『物語 イギリスの歴史』他多数。 協力:新潮社 新潮社 Book Bang編集部 新潮社
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