男子11人、女子4人の大家族で愛人もいた貴族とは? 紅茶アールグレイの由来になった伯爵家のお家事情
首相として政治改革を実現
18世紀後半からのイギリス政治は、ピット対フォックスの熾烈な闘争が中心となった。しかしピットが亡くなり、1806年にグレイは連立政権の海軍大臣に就任する。ところがその直後に今度はフォックスが急逝し、政権も崩壊。イギリス政治は混迷期に突入する。1807年から伯爵として貴族院に移ったグレイは、のちに王と離婚騒動で対立する王妃キャロラインを擁護し、国王ジョージ4世から嫌われ、これで首相の芽もなくなったかに見えていた。 しかし1830年に国王が亡くなり、弟のウィリアム4世が即位するや、グレイは長年の親友である新国王から首相に任命される。ここで彼自身の長年の夢であった選挙法改正(下層中産階級への選挙権の拡大)、工場法の改正、救貧政策の改革など、グレイ政権は矢継ぎ早に次々と画期的な政治改革を実現していく。 実は「アールグレイ」という紅茶の名称が、どういう経緯でつけられたのかは定かではない。あるいは、このグレイ伯爵とは関係がないとも言われている。しかし偉大なる改革者としてのグレイの名声がこの独特のフレーバーを放つ紅茶にふさわしいと、当時の人々が想像してつけたとしても不思議ではない。それほどまでにグレイの名声は絶大だった。
南アフリカ会社で築いた莫大な財産
彼を継いだ3代目の伯爵ヘンリ(1802~1894)は、父の政権で植民地政務次官に就き、帝国全土での奴隷制度廃止に尽力するなどした。以後は植民地大臣として活躍もしたが、1850年代半ばからは要職に就かず、所領経営などに乗り出していく。おかげで1万6000エーカーの土地と年収2万3000ポンドを得ていくが、農場の修繕費に20万ポンドもつぎ込み、逆に足が出てしまう結果となった。 世継ぎに恵まれなかった3代伯のあとは、2代伯の次男チャールズ(1804~1870)の家に伯爵位は継承されていく。このチャールズは陸軍軍人となり、アルバート公、次いでその妻のヴィクトリア女王の秘書官を務め、君主の秘書官という役職を今日(こんにち)にまで続くかたちで確立した功労者となった。 4代伯爵となったのはこのチャールズの長男アルバート(1851~1917)だった。庶民院議員となり南アフリカ問題に深く関わった彼は、やがてダイヤモンド鉱業の実力者セシル・ローズの片腕となる。一時は「ローズの番頭」などとも揶揄されたが、このとき得られた植民地行政の知識が、1904年からカナダ総督となった彼には大いに役立ったとされる。伯父の3代伯は6600ポンド強の遺産しか残せなかったのに、あとを継いだ4代伯の遺産はなんと46万ポンドにも及んだ。南アフリカ会社の大株主だった際の利益なのか。