「名もなき設計・エンジニアたちの知恵と工夫」軍艦島を閉山直後の約50年前に調査 男性が語る建物の安全の秘密
長崎県の沖合いにある端島、通称・軍艦島は、去年閉山から50年を迎えました。 良質な石炭が獲れる軍艦島は1890年から海底炭坑として開発が進められ、岩礁の周りを埋め立てて造られた人工の島。 2015年に日本近代化の遺構として、その炭坑部分が世界文化遺産に登録されています。 【写真を見る】「名もなき設計・エンジニアたちの知恵と工夫」軍艦島を閉山直後の約50年前に調査 男性が語る建物の安全の秘密 長崎市公式観光サイトなどによりますと、南北480m、東西160mの小さな島には多くの鉱員が家族とともに暮らし、最盛期にはおよそ5300人もの人がいました。 日本初の鉄筋コンクリート造りのアパートが建ったのも軍艦島で、高層アパートが立ち並ぶ姿が、軍艦「土佐」に似ていたことから、軍艦島と呼ばれるようになりました。 しかし、1974年1月に閉山が決まると、その年の4月20日に全島民が離島、軍艦島は無人島となりました。 閉山となってすぐ、軍艦島は日本の建築史上、貴重な資料になるとして、東京の大学の研究室が主体となって実測調査が行われました。 その調査に携わったのが現在、山梨県甲府市に住む一級建築士で、当時大学の研究生だった久保田要さんです。 久保田要さん: 「遺っているからこそ美しく、美しいものしか遺らない」 久保田さんが軍艦島に興味を持ったのは大学4年性の時。すでに閉山が決まっていた軍艦島のドキュメンタリーを見たことがきっかけでした。 久保田要さん: 「5300人もの人が住んでいた都市が突然消えるということ、7階、10階もある建物が並ぶ島の姿に『どうしてこの島ができたんだ?』と思った」 「狭い島に高密度で人々が暮らすこの姿は、未来の東京の縮図だと思い、見てみたいと思った」 そこで久保田さんは、当時在籍していた東京電機大学で集落と建築について研究する阿久井喜孝教授に相談。 阿久井教授も同じ考えを持っていたことから2人が発起人となって、東京大学の滋賀秀實助手(当時)も加わり、軍艦島の実測調査を行うことになったといいます。 調査は、3人と学生も含めた11人が中心となる第一次調査隊が、閉山した年の7月に上陸。