「名もなき設計・エンジニアたちの知恵と工夫」軍艦島を閉山直後の約50年前に調査 男性が語る建物の安全の秘密
この時には軍艦島が無人島となって、たった3か月しかたっていませんでしたが、すでに風化が進んでいたそうです。 久保田要さん: 「自然の猛威をもろに受ける軍艦島では木片が落ちていたり、外壁が崩れていたり風化が進んでいた」 「人がいなくなると風化が急激に進む。遺された建築空間を記録にとどめるためには、やはりすぐ調査しなくてはと思った」 久保田さんによれば、海の真ん中にあって自然の猛威にさらされている軍艦島の建物には、波の侵入を防ぐ木製の防潮扉が設置されていたり、大波をかぶっても海水が建物外へ流れ出ていくような溝があったり、軍艦島という特殊な環境ならではの工夫があったそうです。 調査隊は軍艦島にあるすべての建物を担当ごとに実測、写真撮影を行い、それらの情報を1棟ずつ図面に描き起こしていきました。 すべての建物の情報をまとめた全島の手書き図は久保田さんがまとめ役を任されて描き上げたほか、さらに200分の1の全島模型も作り上げました。 全島模型は今、愛知県の明治村に展示されています。 そもそも軍艦島という小さな島で鉄筋コンクリートのアパート群が建築されたのはなぜなのか…。 久保田さんによりますと、軍艦島も初めは木造長屋の1階建ての建物ばかりでしたが、人口が増え2階建ての立体長屋に建て替えられました。 しかし木造の建物では火を使う台所作業は火災への懸念から1階でしか行うことができず、2階に住む人にとっては生活に不便さが生じていました。 しかし、石炭増産に伴って島民がどんどん増加したこと、1階でしか台所作業ができない不便さの解消、生活する中での火災の予防、さらに海の真ん中にある軍艦島で台風などによる大波の被害を防ぐなどの理由から、1910年頃になると軸組は木造、床はコンクリートの混構造へと建て替えられ、生活空間は上へと広がっていったそうです。それが旧14号棟だということです。 そして、この旧14号棟を基礎として1916年に日本初の鉄筋コンクリート造りの7階建ての30号棟が建設されました。