【プロ1年目物語】「20世紀最後の大物野手」黄金新人・井口資仁、衝撃の満塁弾デビューがもたらした“苦悩”とは?
パ新人王には届かず
“20世紀最後の大物野手”と騒がれた男のプロ1年目は76試合、打率.203、8本塁打、23打点、3盗塁、OPS.673。本命視されていたパ・リーグ新人王には届かず、ロッテのドラフト5位ルーキーで遊撃手の小坂誠が選出された。初めてのペナントレースを終え、秋にはハワイのウインターリーグへ参加。先輩の小久保から「自分の形を自分で見つけてこい」と送り出され、打率.199に10失策と結果は残せなかったものの、井口はハワイで試行錯誤しながら野球と向き合った。のちに本人はルーキー時代の苦悩の日々をこう振り返っている。 「新人の頃、打率が伸び悩み、悩めば悩むほど、周囲の人は僕に様々な助言をしてくれた。グリップの上げ下げ、スタンスの取り方、構え方、バットの振り方……。助言はバッティングを構成するありとあらゆる細部に及んだ。(中略)その助言の内容が、人によって結構違っている。極端に言えば、正反対のことを言う人もいた。それでは迷わない方が不思議だ」(二塁手論/井口資仁/幻冬舎新書) 注目度No.1の大物新人の潜在能力に惚れ込み、あらゆる人間がアドバイスをしたがった。もちろんそこに悪意はない。だが、悩めるルーキーには酷な環境だった。過去多くの有望選手が行きすぎた指導で潰れてきたのも事実だ。だが、井口はそこから信頼できる王監督や金森栄治スコアラーの打撃理論を取り入れ、島田誠コーチからは「同期に負けたくなければ、何でもいいからタイトルを取れ」と盗塁王にターゲットを絞り自分のプレースタイルを確立していく。モデルチェンジや二塁コンバートも受け入れ、2001年には30本塁打を放ちながら、44盗塁で初のタイトルを獲得。入団後数年は打率2割台前半と安定感を欠いた打撃も、2003年には打率.340をマーク。2005年以降は、大学時代から目指したメジャー・リーグでプレーする。 プロ1年目、デビュー戦で満塁アーチを放ったことにより苦しんだ22歳の若者は、30歳で渡米したメジャー1年目にシカゴ・ホワイトソックスでワールドシリーズ制覇を成し遂げ、「メジャーで最も成功した日本人内野手」と称されるのである。 文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール