【プロ1年目物語】「20世紀最後の大物野手」黄金新人・井口資仁、衝撃の満塁弾デビューがもたらした“苦悩”とは?
青学OBでもある中内氏から、プロ解禁となる2000年シドニー五輪に井口を派遣したいという構想を聞かされたことが、迷っていた井口の背中を押した形となった。この96年秋、ウエスタン新記録の25本塁打を放った城島健司がハワイのウインターリーグ参加で武者修行。ドラフトでは1位井口、2位松中信彦(新日本製鐵君津)、3位柴原洋(九州共立大)とのちの王ダイエーを支える選手たちが続々と集結しつつあった。1997年の年が明けると小久保らと沖縄で自主トレに励み、キャンプインするとマスコミに追われるが、初めてのフリー打撃を見た王貞治監督は、「守るほうはすぐにでも通用するだろうけど、打つ方は苦労するだろうね」と冷静なコメント。2試合連続ノーヒットに終わった紅白戦では、井口自身が「大学4年の時に、木製バットと金属バットを交互に使っていたことが原因でしょう」と自己分析をしている。
リスクを承知で追い求めた一発
チームは新生ダイエーの象徴でもある井口をなんとか一軍で起用したい。しかし、3月10日、福岡ドームでの対西武オープン戦で背番号7は右翼線を破る三塁打を放ったあと、三本間の挟殺プレー中に右足首を捻挫。診察の結果は、右足首外側じん帯損傷で開幕一軍は絶望的となった。これには「ケガがなければ、井口は開幕スタメンで使うつもりだった」という王監督も渋い顔だったが、4月19日からファームでの練習に合流すると、ついに5月3日の近鉄戦で「二番・遊撃」の一軍デビューを飾る。すると注目の第1打席でいきなり初安打を放つと、第3打席には山崎慎太郎から、福岡ドームの左翼席へプロ初本塁打となる満塁アーチを叩き込むのだ。新人デビュー戦の満塁弾はプロ野球史上初の快挙。ゴールデンルーキーの鮮烈デビューは、とんねるずが司会を務めたフジテレビのスポーツニュース『Grade-A』でも繰り返し映像が流れた。だが、皮肉にもこの劇的な一発が、ルーキー井口を悩ませることになる。 「ファンはもちろん監督もコーチも、僕を長距離砲とみなし、ホームランバッターになることを期待した。(中略)ルーキーの僕としても、ホームランバッターとみなされて嬉しくないわけはない。その期待に応えて、1本でも多くのホームランを打ちたいという気持ちになるのは当然だった。けれど、昨日まで大学生だった選手に、ポンポンとホームランを打たせるほどプロのピッチャーは甘くない。プロ入り3打席目の満塁ホームランは、言ってみればビギナーズラックみたいなものだった」(二塁手論/井口資仁/幻冬舎新書) 満塁弾デビューに誰もが井口の未来に夢を見たが、本人は開幕前の週ベ誌上の名球会打者・大島康徳との対談で、自分ではホームランバッターとアベレージバッターのどちらだと思うかを聞かれ、「ホームランよりはアベレージです」と答えている。 「今もホームランは全然意識してませんし、意識したら自分が崩れるのも分かってますから」(週刊ベースボール1997年3月17日号) それでも、井口は周囲の期待に応えようとリスクを承知で一発を追い求めた。デビュー戦以降、ホームランを意識しすぎて、5月5日の日本ハム戦第二打席から24打数ノーヒットのスランプに陥ってしまう。苦悩するゴールデンルーキーはマスコミに追われる日々に消耗し、リフレッシュも兼ねてシルバーメタリックのベンツ500SLを購入。中古車ながらも新人では異例の福岡ドームと西戸崎合宿所の間をベンツ通勤だ(ダイエーはこの年の5月に寮則が変更されルーキーでもマイカーを運転することが許可された)。王監督も「1年目からベンツかい。いい時代と言うか、時代が変わったねえ」と自分たちの現役時代とは様変わりした平成球界のリアルに驚いてみせた。 井口はウエスタン・リーグに出場してから一軍の福岡ドームに駆けつける変則ダブルヘッダーで調整するも、打率1割台に低迷。「ファームではやっぱり、気楽に打てる。上ではガチガチ。気持ちの持ち方でしょうね」と本人も認めるように一軍の壁は高く、打率.139で5月26日に二軍降格となった。しかし、6月22日に再昇格すると打順は八番や九番の下位で起用されるも、持ち前の守備力でアピールして、浜名千広と遊撃争いを繰り広げる。チームはペナント序盤に上位争いに顔を出し王ダイエー初Vかと騒がれるも、後半戦に息切れして4位で閉幕。井口は9月9日の日本ハム戦で二度目の猛打賞を記録すると、「ずっと苦しんできたんだから、こんな日があってもいいでしょう」と思わず記者陣の前で本音を漏らした。