父親の行為が「グルーミング」による支配だと大人になって知った。「お前のため」と囁くトゲは心に深く突き刺さり、やがて膿む
◆本当の悪人は、悪人の顔をしていない 「悲しみ」は「怒り」に変わり、それはやがて「憎しみ」へと変化する。膿んだ感情が破裂すれば、人は容易く鬼になることを私は知っていた。父が私にしていることを知った母は、父ではなく娘の私を憎んだ。 私は母にとって「守るべき存在」ではなく、「邪魔な女」だった。母に竹の定規で打たれるたび、私は母を鬼だと思った。だから、自分が誰かに対し殺意を抱くことに、さほど疑問を抱かなかった。鬼の子は、所詮鬼だ。そう思ったら、すべてがどうでもよくなった。 良く生きよう、と思っていた。両親とは違う道を、真っ当に歩もうと思っていた。幾度となく煮え湯を飲まされ、それでも刃を他者には向けず、罪人にだけはならない道を歩もうと思っていた。でも、限界だった。 正しく生きようとする人間が、必ずしも幸せになれるわけじゃない。悪人に、必ずしも天罰が下るわけじゃない。だったら私は、なんのために理性の手綱を握りしめているのだろう。 手綱を握る掌には、もう力が入りそうになかった。何より、Sは自分のことを「悪人」とは認識していなかった。むしろ、おそらく「善人」であると認識していただろう。本当の悪人は、悪人の顔をしていない。
◆騙された自分がバカだった 次にSに会う日は、すでに決まっていた。私は、決着をつける準備をしてその日を待った。 ライオンゴロシの患部は、切り落とせない。でも、ライオンゴロシそのものは、切り落とせる。 騙された自分がバカだったのだ。そもそも、「誰でもいいから夜を一緒に過ごしてほしい」などと浅はかな甘えを抱いていたことが間違いだったのだ。 必死にそう説き伏せる理性を黙らせたくて、枕に顔を押し付けて大声で叫んだ。「助けて」と叫んだ声は、くぐもった唸り声にしかならなかった。
◆踏みとどまらせてくれた物語の一節 物語を読む時、1周目、2周目、3周目と、読み返すごとに味わいが変わることは、読書を好む人にとって珍しい話ではないだろう。印象に残る一節も、読み返すごとに微妙に変化する。 Sと会う前日の夜、私は改めて『冷めない紅茶』を読み返していた。覚悟を決めるために、頁を開いたはずだった。しかし、そんな私の目に飛び込んできたのは、この一節だった。 “一緒にいる楽しさよりも、いないつらさでその人の大切さが胸にしみる時、わたしはその人を特別に愛することができる。” 即座に脳裏に浮かんだのは、幼馴染の顔だった。中学生の時、自死を止めてくれた。以来、長年寄り添ってくれた。その後、問題の重さと私の未熟さに耐えかね、絶縁宣言をした彼の顔は、いつもどこか寂しげだった。 彼が隣にいない。もう会えない。一時はその寂しさが、憎しみにすり替わったこともあった。でも、どうしたって彼は私にとって、「大切な人」だった。大切で、大好きで、愛していた。 明日、私がやろうとしていることを知ったら、彼はどうするだろう。怒るだろうか、止めるだろうか、それとも代わりにSを消そうとしてくれるだろうか。少なくとも、喜ばないことだけはたしかだった。彼は、悲しい時ほど薄く笑う。その顔を想像したら、理性の手綱を握る手に、少しだけ力が戻った。