町田樹さん「なぜフィギュア選手に?」〝問い〟と気づけなかった過去 研究者になり「問いの発見、難しい」
「問いに答えは必要なのか」
町田さん:もう一つ永井さんと対話したかったのは「問いに答えは必要なのか」ということです。永井さんの「水中の哲学者たち」には問いがたくさん出てくるのですが、一つも答えが載っていないのです。私も大学で学生たちに教える立場ですが、どうしても教育ということに関しては、答えを出す、あるいは答えを出す術を教える、ということが使命になってくるわけです。大学の研究者や大学の授業で扱う問いというのは、答えが一応あるというか、答えを出すための問いを立てるわけです。ですが、永井さんの著書や対話の中で立てられている問いは、果たして答えがあるのかな、と感じたのです。 著作の一番最後の章で、スコップで砂場を掘ってガシャッと底を打つという、掘り下げていったらいつかは答えというのが底をつくのではないか、ということを信じて今日も問いを考え続ける、という形で締めくくられているのですが、それらの問いに、答えはあるのでしょうか。 永井さん:すばらしい問いかけをありがとうございます。「答え」が何なのかということ自体がまた問いになってきてしまいますけれども、いわゆるカギ括弧付きの「正解」といったものや一問一答的なものはおそらく存在しえない、ということなんですよね。ただ、だからといって空をかくような試みなんだと言われたとすれば、そうではない、とも言いたいわけです。というのも、問いに関わるということは応答するということですよね。それ自体がある種、答えへの態度である、と私は考えています。 ですから、問いは育っていく。最初はモヤッとして非常に個人的な悩みのように思えたものが、他者と共にザワザワと触られることによってだんだんとまた増えていく。これは悩みが増えてしまって立ち尽くすことではなく、むしろ進んでいることだと思いますし、応答のあり方のバリエーションだと私は思っている。なので、答えなんかないとか、答えがない問いを考えるんだって言い方は実はしないようには注意を払っています。 町田さん:そうやって問いが問いを呼ぶ。考えることで「私」がつくられ、そして対話を通じて「私」が変化していく、というそのプロセスこそが大事なのだということを、永井さんとの対話を通じて実感することができました。Nobody賞の正賞である「メビウスの帯」のように、問いが問いを生んでいくという無限ループの中で考え対話をし続けて、そのループを歩む過程で得られた成果をこれからも言葉としてつづっていっていただきたいと、心からのエールをお送りして、私と永井さんの対話を締めくくりたいと思います。本日はNobody賞の受賞、まことにおめでとうございます。 永井さん:ありがとうございました。