『枯れ葉』木の葉のセレナーデ
カウリスマキ・ユニバース
ホラッパとアンサが初めてカフェで向かい合うシーンはほんの少しの沈黙から始まる。二人がカフェに入っていくシーンや、椅子に座ってどんな話をしたかは省略されている。しかし画面で示される以前の時間においても、二人の間を沈黙が支配していたであろうことは容易に推測ができる。二人の間には互いの沈黙を許容する準備が既にできているようだ。 『枯れ葉』における食事のシーンはとめどなく美しい。ここでは食器の音すらヘルシンキという都市の交響楽を奏でる楽器のように響き始める。アンサの乗る路面電車のシーンに最上のメロドラマ的な音楽が重ねられるのと、まったく同じレベルの響きがある。日本版のメインビジュアルにもなっている二人が向かい合う食事シーンには、もはや崇高さすら感じる。揺るぎないフレーミング。そしてここにはどんな言葉を重ねることよりも美しい営み、ジェスチャーがある。 アキ・カウリスマキの映画における沈黙は、ときに“フィンランド的”と評されることがある。しかしアキ・カウリスマキの映画自体はアウトサイダー的であり、むしろ属性を予め無効化している。タイプライターのよく似合うヴィンテージな部屋空間は、登場人物たちが生きている時代を特定させない。本作においてもアンサは職を探すために、スマホや自宅のPCではなくネットカフェを利用している。 もっとも興味深いのはカフェやバーにつけられた名前だ。「ブエノスアイレス」や「カリフォルニア」といった、遠く離れた異国の土地の名前がつけられている。一つの町の中に“世界地図”がある。ここではない何処かが町の中にある。本作のキャラクターたちは、いわば“カウリスマキ・ユニバース”とでも形容したくなるような世界で暮らしている。アメリカ映画のアウトサイダーであるジム・ジャームッシュ監督と、ウインクを交わしあうスピリットがここにある。
ポルトガルの犬
ウクライナ情勢のニュースがラジオから流れてくる。旧ソ連に侵攻された歴史のあるフィンランドにとって、ウクライナ情勢が切実な恐怖であることは想像に難くない。アンサはこの戦争に怒っている。かつて『マッチ工場の少女』のテレビモニターに天安門事件を報じるニュース番組が映し出されていたように、アキ・カウリスマキの映画には、ふとした瞬間に個人の力ではどうにもできない大きな問題が介入してくる。そして登場人物たちは大きなニュースと同じように、様々な音楽を無意識に耳にする。私たちの日常と同じように。 アキ・カウリスマキほど生演奏のシーンを好んで描く映画作家も他にいないのではないだろうか?アンサとホラッパの心の揺れは、耳から入る情報との相互作用の中から生まれる。おなじみのフィンランドの歌謡タンゴやクラシカルなロックンロールとはまったく毛色の違う二人組のガールズバンド、マウステテュトットの演奏がとても刺激的だ。彼女たちの演奏がアンサとホラッパの、そしてこの映画の命運を握っているといっても過言ではない。アキ・カウリスマキより遥かに下の世代の彼女たちが奏でるポップミュージック。若い彼女たちの音楽と演奏に、映画の命運を預けたアキ・カウリスマキの思いが輪をかけて感動的なのだ。 仕事中にも隠れて酒を呑むアルコール中毒のホラッパは、酒を断つことを決意する。酒を断つということは、アンサの悲しみを深く理解するということだ。二人の間に人生の秋がやってくる。 サウダージという概念がある。この言葉は帰ることのできない故郷や、失われたものに対するメランコリックな憧れを意味するポルトガルの言葉だ。そして『枯れ葉』に登場する犬は、アキ・カウリスマキが一年の大半を過ごすというポルトガルから連れてきた犬だという。本作にはここではない何処かへ向かうのではなく、この場所で自分たちだけの秋を歌うような瞬間が刻まれている。人生の秋を歌う。明かりを灯す。ウインクを交わす。そして懐かしむ。『枯れ葉』は、ポルトガルからやってきた犬と私たち観客が歌う“木の葉のセレナーデ”なのだ。 *Andrew Nestingen 「The Cinema of Aki Kaurismäki」 文:宮代大嗣(maplecat-eve) 映画批評。「レオス・カラックス 映画を彷徨うひと」、ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、装苑、otocoto、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。 『枯れ葉』 2023年12月よりユーロスペース他、全国ロードショー中 配給:ユーロスペース 提供:ユーロスペース、キングレコード © Sputnik