ニコール・キッドマン、ダコタ・ファニングら共演 『理想のふたり』が描く“人間たちの醜さ”
同時に映し出される、争いを始める人々と風光明媚なバケーション
本シリーズで目を引くのは、ビーチの見えるロケーションの美しさと、その対極にあるといえる、人間たちの醜さである。ナンタケットの富裕層であるウェンブリー家の人々は、まるでヨーロッパ貴族のように振る舞い、貧困層をナチュラルな態度で見下すなどの尊大な態度をとっている。そして例の事件が起こると、地元警察に金銭的な援助をしていることを利用して捜査の手から逃れようとしたり、ニューヨークの敏腕弁護士の名を使って威圧しようとすらする。 ウェンブリー家だけではなく、家の使用人や地元警察までも、ナンタケットに住みついているだけのことで、ある種の優越感を持っているのを垣間見せるところは、嫌なリアリティを感じさせる部分だ。このあたりは、さすが現地作家の原作を持ったシリーズだと言うべきか。そしてそんな状況は、アメリカの資本主義を背景にした階級構造が、風光明媚な島にも色濃く存在するということを、われわれ視聴者に強く印象づけるのである。 だがアメリアやグリアが、経済力とは別のところで何かを成し遂げたいと望むように、生まれながらの優位性に甘んじて自立ができない者たちに対し、人生を独力で切り拓いていこうとする者たちがいるということを、本シリーズは「リアルを生きる/生きていない」という文脈で描いている。それはまるで、観光地に対する理想と現実との関係でもあるかのようだ。 ウェンブリー家のドロドロとした人間関係や、不適切な行為にも、本シリーズはフォーカスしていく。「理想のふたり(パーフェクト・カップル)」というタイトルは、一見完璧に見えるような新婚夫婦や、長年連れ添った裕福な夫婦たちが、じつは崩壊寸前の内情を隠していたり、容易く裏切ってしまうことができるという状況を描くことで、皮肉を含んだものとして立ち上がってくるのだ。 その一方で、新たなロマンスや、相手を本気で愛する恋愛劇も、本シリーズでは表現される。ナンタケットという場所は、そういうシチュエーションが自然と生み出されてしまうところでもあるのだろう。パートナーとの出会いと恋愛の盛り上がりは、ここではまるで一時のバケーションであるかのように見える。 しかし人生を続けていくなかで、パートナーとの関係を維持していくことは、不断の努力が必要になってくるはずだ。真の意味での「理想のふたり」になるためには、バケーションのような楽しさだけではなく、地に足がついた“生活”もまた必要になってくるのではないか。殺人事件をきっかけに争いを始める人々と、風光明媚なバケーションを同時に映し出す本シリーズは、そんな一つの真理を暗示しているのではないだろうか。
小野寺系(k.onodera)