日本人は死刑を下すときに主観を排除できているのか…冤罪が疑われる「福岡の殺人事件」を10年間取材してわき上がった「問い」
闇だらけの司法
――久間元死刑囚のワゴン車ですけれど、(事件後)警察が押さえていますね。座席の繊維痕が、微量であるが被害女児の服から出たと。テーブルの上で誰かが服の上にパラパラって撒けば、あっという間だと思うんですよ。 安倍政権以降、大川原化工機事件をはじめ検察だの裁判官だの司法制度の中で訳の分からないことをやっている方々が散見されるというか。木寺さんが時代の様相と感じていることがあれば。 いま仰ったようなことが疑わしいかどうか、私が摑んだ情報では何もはっきりとしたことは言えないですけれども、痛感するのは日本の裁判ですね。警察が捜査し、検察が何かを起訴していっても、それを見極めるのが裁判であって、死刑という究極の刑を下すときには、どれだけ主観を削いでいけるかが大切だと思うんですけれど、日本ではそれが弱いと。もうずっとですけれど。 それがやっと袴田事件をはじめとする様々な事件で、弁護団の方の努力で、少しずつ一般の市民の方に伝わってきているのが現状だと思うんです。 袴田さんへの再度の死刑求刑に対する世論のうねりを見ていますと、ブラックボックスにさせてはならないというような声が、私には聞こえてくるように思います。そういうことが大事かなと思っています。
根本をいまいちど考え直す
――今般の状況を見ても、この作品はすごく価値のある作品だと思っているんですが、いろんな立場の人たちが見る中で、監督としてどういうことを感じ取ってもらいたい、伝えたいと考えているのでしょう。 先ほど申しましたようにこの映画でこれを感じ取ってほしいという明確な言葉があるわけではないんです。 冤罪を扱うような、冤罪の疑いがあるものを扱うようなテレビ番組、映画ドキュメンタリーは、かなり一方的に主張するものが多いかと思うんですけれども、僕はそういう押し付けがましさがあまり好きではなくて、結局自分がどう考えるかが大事で、警察、弁護団、メディアの三つをテーマにしていますけれども、一番大事な当事者は私たちだと思うんです。 私たちが何を考えて、どう動くのかということにすべてが懸かっていると思いますので、これが冤罪かどうかということではなくて、自分が何を考えて、これからの社会の中でどう個人個人が考えるかということが大事じゃないかなと思っています。 一番肝心なのは、人が人を裁くって本当にできるんだろうかと。その根本に立ち返って、もし裁くんだったらどういうふうにしたらいいのか、ちゃんと積み上げていかないといけないと考えています。