毎月外車が1台買えたほど…バブル期に「ゲームセンター」が大儲けした理由
日本では、クレーンゲームが広く普及しています。誰しも1度は挑戦したことがあるでしょう。なぜクレーンゲームは、老若男女問わず、長く愛されているのでしょうか? 本記事では、井上岳久氏による著書『集客が劇的に変わる! クレーンゲーム専門店エブリデイの経営戦略 BAD プレイスでも儲かる理由』(ごきげんビジネス出版)から、日本におけるクレーンゲームの進化について解説します。
日本のクレーンゲーム誕生から黄金期まで
日本におけるクレーンゲームの歴史はテレビゲームより古く、1965年にはタイトーから発売された記録が残っているほか、同年にはサミーの前身である「株式会社さとみ」もクレーンゲーム機市場に参入しており、1960年代にはすでに複数のメーカーによる市場が形成されていたようです(電動でなく手動でハンドルを回すタイプのクレーンゲームは、1930年代にはすでに登場していました)。 2本アームのクレーンゲームは日本独自で発展したもので、先述したように海外のマシンは3本爪のものでした。それが日本に入ってきて、タイトーがテーブル型で上からのぞき込むものをつくりました。1985年にセガが目線の高さにある2本アームのものを「UFOキャッチャー」と名づけたのが、いま一般にクレーンゲームといわれているものです。 1980年代後半~バブル期 1980年代後半からはぬいぐるみなどが景品となり、人気を博していきます。テレビゲームが衰退気味となったことから、テレビゲームに代わるアーケードゲームを探していた86業界が着目。各メーカーが新型クレーンゲーム機を競い合うようにつくりはじめました。 1990年ごろになると、アンパンマンやストリートファイターなどの有名キャラクターを用いた専用景品が数多く投入され、大ヒットします。種類や質も向上し、各景品メーカーが続々と新商品を発売しはじめました。一般的にクレーンゲームの存在が大きく知られるようになったのはこのころで、日本の景品文化のはじまりともいえます。 バブルのころ、ゲームセンターのクレーンゲームは黄金期を迎え、1台ゲーム機をもっているだけで毎月外車が1台買えるほど儲かった時代もありました。