徳川家康=狸親父を決定づけた「大坂の陣」での卑怯技…23歳の豊臣秀頼を自害に追い込んだ「攻めの手口」の真意とは
豊臣家の募兵と徳川家康の出陣
大坂方は、豊臣秀頼の名をもって、福島正則をはじめとする秀吉恩顧の大名に参戦を呼びかけた。 しかし大坂方の期待に反して、秀頼に味方する大名は一人もいなかった。それどころか、大坂加担の嫌疑をかけられることを恐れて、秀頼からの書状を家康に提出したりした。 徳富蘇峰は「彼らは徳川幕府によりて、その一身の栄達を得、子孫の計を全うせんとした」「人情ほど頼みにならぬものはない」と述べている。 けれども、大坂方は城内に備蓄されていた膨大な金銀をばらまき、諸国の牢人を呼び寄せた。 彼らは徳川に遺恨を持ち、また現在の窮状を打開し立身出世、一攫千金の夢を抱いて大坂に入城した。 牢人衆の代表としては、長宗我部盛親・後藤又兵衛(基次)・真田幸村(正しくは信繁だが軍記類では専ら「幸村」と記される)・毛利勝永(正しくは「吉政」だが軍記類では専ら「勝永」と記される)・明石全登らが挙げられる。 大坂方の兵力は十万(『長沢聞書』)とも七万三千五百(『明良洪範』)とも言う。 一方の関東方はどうか。 片桐且元が大坂城から退去するという報告は、事前に駿府の徳川家康のもとに届いていた。家康は十月一日には大坂討伐を決定し、近江・伊勢・美濃・尾張など沿道の諸大名に出陣を命じた。 家康は伊勢桑名城主の本多忠政(徳川四天王の本多忠勝の嫡男)、伊勢亀山城主の松平忠明(家康の外孫)らを先行して上洛させた。 そして十月十一日に駿府を出発し、同二十三日、五百余りの手勢を率いて京都に到着した。同日、将軍秀忠が五万余の大軍を率いて江戸城を発した。
大坂冬の陣
これより先の十月中旬、大坂城では軍議が行われた。真田幸村は後藤又兵衛と共に、宇治(現在の京都府宇治市)・勢多(現在の滋賀県大津市)まで進出して関東方の渡河を阻止する積極策を唱えた。 ところが豊臣家の首脳部は籠城策を主張し、鉄壁の巨城に拠って戦うことに決した。 ただし、大坂城には防禦上の弱点があった。城の西は大坂湾、北は天満川、東は深田が控えているが、城の南側は空堀を備えているのみで手薄だった。 そこで幸村は籠城戦に備えて、大坂城惣構(外堀)の南東隅の外側に出丸(砦)を築いた。奈良方面から北上してくるであろう関東方の大軍を、幸村はこの出城で迎え討とうと考えたのである。これが有名な「真田丸」である。 十一月十五日、徳川家康は京都二条城(現在の京都市中京区)を発し、大坂に向かった。十八日には天王寺の茶臼山に登り、秀忠の出迎えを受けた(『駿府記』)。その頃には東軍諸大名の布陣も整い、総勢二十万余の大軍が大坂城を包囲した。 翌十九日には木津川口・伝法川口で戦端が開かれ、関東方が勝利した。同日、家康は大坂城の堀に注ぐ淀川の本流を堰き止めることを指示し、土俵二十万個の準備を命じた。さらに二十一日、家康は大坂城の周囲に付け城を築くことを命じ、持久戦の備えを固めた。 十一月二十六日、関東方の佐竹義宣が今福砦を、上杉景勝が鴫野砦を攻撃し、それぞれ苦戦の末に奪取した。さらに東軍は二十九日には博労ヶ淵および野田・福島を攻略し、大坂城包囲網を少しずつ狭めていった(『大坂御陣覚書』『大坂陣山口休庵咄』など)。 十二月四日、関東方は大坂城攻略の第一弾として、真田丸を攻撃した。真田丸を攻略しようとした越前藩の松平忠直(家康の孫)、彦根藩の井伊直孝(徳川四天王の井伊直政の次男)、加賀藩の前田利常(外様大名)らの軍勢は真田隊の地の利を活かした巧みな射撃により大損害を受けた。この「真田丸の戦い」によって、真田幸村の名は一躍高まった。