徳川家康=狸親父を決定づけた「大坂の陣」での卑怯技…23歳の豊臣秀頼を自害に追い込んだ「攻めの手口」の真意とは
合戦の発端
まずは、家康側近が記したとされる大御所家康の動静記録『駿府記』の記述などに基づき、大坂の陣の経緯を確認しておこう。 一般に発端は方広寺鐘銘事件と考えられている。 方広寺大仏殿は、豊臣秀吉が京都東山の三十三間堂の近くに建立した寺院である(なお方広寺という名称は後につけられたもので、当時は大仏・大仏殿と呼ばれていた)。 文禄五年(慶長元年、一五九六)の慶長伏見地震で木造大仏が被害を受け、再建の間もなく秀吉が死没したため、豊臣秀頼が唐銅による大仏再建に取りかかった。ところが慶長七年(一六〇二)十二月に失火のため大仏殿が焼け落ちてしまった。しかし秀頼はあきらめず、同十四年から大仏殿と大仏の再建を始めた。 慶長十九年(一六一四)春、再建工事がほぼ完成し、四月には梵鐘の鋳造も行われた。 大仏開眼供養は八月三日、大仏殿供養は同十八日に行われる予定であった。ところが七月下旬に入り鐘の銘文が問題視され、家康は供養の延期を命じた。 よく知られているように「国家安康」「君臣豊楽」の二句が、豊臣の繁栄を言祝ぐ一方で家康を呪詛するものであるとして、家康が激怒したのだ。 豊臣家家老の片桐且元は弁明のため駿府を訪れるが、家康には会えず、家康側近の金地院崇伝・本多正純に詰問される。大坂に戻った且元は三箇条(秀頼の在江戸・淀殿の在江戸・大坂城退去)のどれかを受け入れるべきと提案したため、豊臣秀頼・淀殿の怒りを買い、十月一日に大坂城を去った。 片桐且元は豊臣秀頼と徳川家康に両属するような立場であり、両家をつなぐパイプ役となっていた。その且元を秀頼が一方的に追放したことは、徳川家との断交を意味する。大坂方は、且元を追放した翌日の二日には戦闘準備を始めた。 いわゆる方広寺鐘銘事件は、豊臣家を討伐するための家康の謀略と考えられてきた。 徳富蘇峰は「大阪の戦意発表は、宣戦の原因でなく、結果だ。大阪は最後の通牒を突き付けられ、その上に重ね重ねの無理難題を浴せ掛けられ、坐して亡滅を待たんよりは、寧ろ万一を僥倖せんとして、戦闘準備をしたのだ」と論じている。