中村敬斗と伊東純也がゴール量産「フランス人の誇り」ランスの真実(3)ボール泥棒が活躍「10年間で5回」優勝、レアル・マドリードとの「決勝後」の別れ
サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回のテーマは、伊東純也と中村敬斗、2人のサッカー日本代表選手が背負う「フランス人の誇り」。 ■【映像】「決定力がものすごい」シュートの魔術師が王者パリサンジェルマン相手に「2戦連発」ゴール
■地元生まれのストライカーが「初の快挙」
この大戦前から大戦後の時期にかけてチームを牽引したストライカーが、地元ランス生まれで鉄道員の息子だったアルベール・バトーである。1937年に18歳でスタッド・ドゥ・ランスの1軍にデビュー、第二次世界大戦をはさんで1948/49シーズンには、後半戦の14戦12勝という快進撃でクラブに初のリーグアン優勝をもたらした。 このシーズンはプレーヤーとしてのバトーの頂点ともいうべき1年間で、29歳のバトーは初めてフランス代表に選出され、8試合に出場して1ゴールを記録している。8試合のうち最後の4試合はキャプテンのアームバンドを巻いた。 1950年、31歳のバトーはスタッド・ドゥ・ランスの監督に就任する。リーグ4位に終わったシーズンの終盤に、彼は大きな宝物を発見する。アンジェでプレーしていたレイモン・コパである。4-4の引き分けに終わった練習試合でコパの才能を認めた彼は、移籍金の一部を自分で負担してコパの獲得に成功した。
■チームの運命を変えた「ボール泥棒」の攻撃
「コパ」は通称である。正確な名字は「コパシェフスキー」。ポーランドからの移民の3世だった。彼の祖父は1919年に炭坑労働者としてフランスに移り、レイモンの父フランソワも炭坑労働者として生きた。母もポーランド移民の子で、家で使われるのはポーランド語だけ。1931年生まれのレイモンは学校の勉強にまったくついて行けず、サッカーに熱中した。 第二次世界大戦中、コパシェフスキー家がいたベルギー国境に近い地域はナチスの直接占領下にあり、サッカーのピッチもドイツ軍専用にされていた。レイモンは仲間と語り合ってドイツ人がプレーするピッチ周囲に忍び込み、転がってきたボールを盗むことに熱中した。そして、それを持ち帰って近所の空き地でサッカーに興じた。「あれが僕たちの『レジスタンス(抵抗運動)』だったのさ」と、レイモン・コパは後によく語った。 コパを得たことで、スタッド・ドゥ・ランスの運命は大きく変わった。1951/52シーズン、バトーは当初、自分が現役復帰して攻撃をリードしようと考えていたのだが、20歳を前にしたコパに攻撃を託すことにした。そして黄金時代が始まる。コパがきた2シーズン目の1952/53シーズンにリーグアンで2回目の優勝。それから1961/62シーズンまで、10年間で5回の優勝を飾るのである。
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