加藤シゲアキ×小川哲×今村翔吾が語る…「今小説家にできること」能登半島地震復興応援企画始動!
東日本大震災の記憶
加藤 初めての小説に取り組んでる期間に、東日本大震災がありました。 今村 え、そうだったんですか? 加藤 『ピンクとグレー』を執筆しているタイミングでしたね。『ピンクとグレー』には自殺の話もでてきますから、こんなときにこんな小説を書いていいのか、と本当に迷いました。それでも──内容というよりも、「加藤シゲアキが小説を書いている」ということが励みになる人がいるかもしれないと考えることにしたのです。たまたまではありますが、自分の転機と震災が重なることが多くて。 今村 日本にいると、どうしても地震は切り離せないものですが、人生の転機にも重なるのかもね。 加藤 今村さんは東日本大震災のときは、東北へボランティアに行ったと聞きました。 今村 南三陸町と登米市には炊き出しやダンスのイベントのボランティアに何度も行きました。よく覚えているのが、震災の起きた年のクリスマスに、ご両親が亡くなって施設に入らざるを得なかった子どもたちにむけて大規模なクリスマスパーティーをしたことです。二千人ぐらいの規模で企画しました。 子どもたちを施設からバスで招いて、クリスマスを祝ったんです。その前の年まではお父さんお母さんと祝っていた記憶が絶対フラッシュバックするやろうな、と思ってはいたんですが、少しでも笑顔になればというか、気持ちが紛れればいいなということでやりました。体育館で寝袋に寝て準備しましたね。 加藤 今も現地とはつながりがあるのですか? 今村 南三陸町には、仮設店舗から営業を開始した「南三陸さんさん商店街」という商店街があるんです。一昨年、日本全国を回る「まつり旅」というイベントをやっていたときに立ち寄ったんですけど、歩いていたら「翔吾くん!」って声かけられて、びっくりしました。「今村さん」とか、「今村先生」じゃなくて「翔吾くん」と呼んでもらえたことはうれしかったなあ。 今回の能登半島地震がどうなっていくのかまだわからないけど、東日本大震災のとき、みんな強いな、ということを実感しました。ニュースとか見ている限り、能登で被災された方々には言葉では言い表せない大変さとか、苦労とかはあるけれど、それでも前を向いていこうとする強さみたいなものを感じます。その後押しを微力ながらできたらいいなと感じています。 小川 なるほど。東日本大震災のときに今村さんが何か「ここはこう変えられたらいいのに」と感じたことはありましたか? 今村 日本のチャリティーの悪いところって、一時のブームで終わらせてしまうところにあると思うんですよね。能登半島地震はもちろんですけど、東日本大震災もまだ何も終わってないという人がいっぱいいるんです。継続的に何かしらの形でいろいろできることは忘れたらあかんなとは思います。 小川 日本では日常的に地震が起こるので、どこかで「今回は大丈夫じゃないか」みたいなことを思いがちかもと思っています。大地震が起きた直後って、どこか感度が低くなってしまうようなことってありませんか? 今村 まさにそれは思いました。能登半島地震のとき、僕のいた滋賀県は結構揺れて震度四ぐらいでした。だけど、東日本大震災のときもそうだったんですが、起きたばかりの初っ端ってなぜか「大丈夫やろう」と思ってしまうんです。続報でどんどん、いや、これはやばいってなっていく。何なんやろね。なんか大丈夫やろって信じたい気持ちでもあるんかな。 加藤 やっぱり正常性バイアスみたいなことがあるのですよね。 今村 それが能登半島地震でも、津波っていう言葉が盛んに報じられ始めて意識が変わりました。東日本大震災の津波の映像を繰り返し見ているから。 小川 今村さんは、過去の地震の歴史にも目を向けていますか? 今村 意識しますね。ここまでの地震って、十数年周期くらいで大きなものが起きていますけど、地球規模でいったら一瞬だな、とか。小川さんがおっしゃったように過去の地震履歴にも目を向けます。慶長地震とか、その前の豊臣秀吉の頃は地震が頻発していました。決しておどかすわけじゃなくて、今たまたま被災していない僕らも他人事じゃないなと感じます。小川さんは地震の記憶って何かありますか? 小川 ずっと関東に住んでいる僕にとって一番の記憶はやっぱり東日本大震災になります。当時はまだ大学院に在籍していて、大きな揺れを前に、自分のフィジカルとしてもこの地震はちょっといつもと違うと感じました。ここが震源地じゃないんだったら震源地は相当やばいだろみたいなことを感じましたね。でも正直、最初はよくわからなかった。本当に大変な情報って後にならないと出てこないんですよね。 加藤 それはよくわかりますね。 小川 これは話が脱線してしまいますが、当時、知らない番号からの着信を一切取らない人間でした。そうしたら、大学内で最後まで安否確認ができない学生になってしまっていたようです。松浦寿輝先生から直接連絡が来て、やっと確認がとれた。 加藤 大学側もちゃんと安否確認をしてくれたのですね。 小川 僕は今村さんみたいに行動力があるタイプじゃなくて──と開き直るのもよくないんですけど、震災に対して少し距離を置いて考えていました。あのときは、何かしたいなと思ってもなかなか行動に移せなかったですね。何が起こっているかをひたすら観察することしかできませんでした。一ヵ月ぐらいずっと見ていましたね。 今村 ちょうど春休みの時期でしたから時間もあったんでしょうね。 小川 そうでしたね。特に印象的だなと感じたのは、東日本大震災はSNSが普及して初めての大きな地震だったことです。リアルタイムでいろんな情報が流れていって、例えば被災地にボランティアで行く人のための情報とかもやりとりされ、実際にどういうことに困っていて、物資としてこれは必要ない、とかどんどん情報が流れてくるんですよね。でも必要ないって言っている人がいる一方で、実はその物資を必要とする人もいたりとか混乱もしていました。その流れをずっと見ていたのを覚えています。 加藤 情報が錯綜していましたよね。特に地震直後は、被害状況も正確にはわからなかったのをよく覚えています。 小川 あのときは、夜になっても死者が二十何人とか十数人とかしか報道されていなかったんですよね。本当に大変な地震って被害がどれぐらいなのか、すぐにはわからないということを後々になって知りました。今回の能登半島地震でも最初に報じられたことだけではなくて、その後をちゃんと見なければならないと思っています。そしてもう一つ。被災地をずっと見続けるということです。