郷土の偉人「清水次郎長」の後半生 社会事業家、港の発展重視 「まるちゃんの静岡音頭」にも登場
「ちょいと忘れちゃいませんか うちの親分 日本一」。静岡市のPRソング「まるちゃんの静岡音頭」にも歌われる「清水次郎長」(本名山本長五郎)。虚実とりまぜながら愛されてきた次郎長の物語は、仁侠[にんきょう]道を歩んだ前半生に集中している。だが、郷土の偉人「次郎長」の真価は後半生にこそ現れる。ばくち打ちのアウトローではなく、公務に従事し清水の振興に務める社会事業家としての活躍だ。 1868年、次郎長は官軍の管理下となった駿府で周辺の街道と清水港警護を命じられた。過去の罪科を免責された上で帯刀を許され、結果的に博徒から足を洗うことになった。江戸から駿府に移住する旧幕臣の世話や浪士の取り締まりに貢献したという。当時49歳の次郎長は74歳で死去するまで、表社会で数々の事業に携わった。 社会事業家として清水港の発展を重視した。「県を猫に例えると静岡はその腹、遠州は尾、清水は口に当たる。口に食べ物が入れば、体に滋養が回る」と回船問屋に港の近代化の必要性を説いた。後に外洋港化してからは、蒸気船による横浜港間の定期航路実現を後押しした。横浜の商人と回船問屋を結びつけ、静岡茶の海外輸出につなげた。 活動は清水だけにとどまらなかった。富士市大淵の白髪神社境内に「大侠次郎長開墾記念碑」と書かれた石碑が立っている。次郎長は74年、県から助成を受け富士裾野で開墾に乗り出した。約10年かけたが寒冷な気候から開墾は不成功に。ただ後に近隣から入植者が集まって集落を築き、先駆者への敬意を込めて現在も富士市大淵次郎長町として名を残す。 遠州相良油田(現在の牧之原市)の開発に協力したり、青年を集めた英語塾を開いたりといった開明的な一面もあった。西洋医を招いて地域医療に貢献し、東海道線の工事に助力したとも。84年に過去の博徒としての罪状で一時収監されるも翌年には特赦放免となり、86年には向島波止場(現在の静岡市清水区)に船宿「末廣」を開いて晩年の生業とした。 今年6月9日、次郎長の菩提[ぼだい]寺、梅蔭禅寺(清水区)で開かれた墓参供養祭には県内外から多く焼香者が訪れ功績をしのんだ。主催の「次郎長翁を知る会」は1992年発足。彼の後半生の顕彰が主眼だったため、人名に「翁」をつけたという。府川充宏会長(77)は「次郎長は明治維新を機に生き方を180度転換した。社会のために良いことは全部やろうと力を尽くした。彼の行動力がなければ今の清水港はなかった」とたたえた。 <メモ>清水次郎長は1820年、駿河国清水町美濃輪生まれ。生後すぐ母方の叔父山本次郎八の養子となり、本名は山本長五郎。次郎八の子の長五郎が転じて「次郎長」と呼ばれた。23歳で人を斬り無宿者に。「庵原川の仲裁」で侠客として名を上げた後に清水で一家を持ち、各地の抗争をくぐり抜け「海道一の大親分」と称された。清水港内で幕軍軍艦咸臨丸が官軍の攻撃を受けた際に、幕軍の遺体を手厚く葬ったことで山岡鉄舟の知遇を得た。1893年、病没。
静岡新聞社