戦いの勝者示す重要度「大坂城戦史」展で歴史をひも解く
戦いの勝者示す重要度「大坂城戦史」展で歴史をひも解く THE PAGE大阪
石山合戦、大坂の陣、戊辰(ぼしん)戦争。かつての大坂が舞台となった3つの戦いを通じて、大阪の存在感を見つめ直す「大坂城戦史」展が、大阪市中央区の大阪城天守閣で行われている。織田信長は安土から大坂への進出を企てていた。幕末の徳川将軍は江戸ではなく、大坂城内で指揮を執り、外交活動を展開していた。宮本裕次大阪城天守閣研究副主幹の研究成果をもとに、知られざる大阪像をひもとく。
新しい勝者が次の時代も使い続ける大坂
──城郭様式で防御を固めた石山本願寺で、本願寺勢が織田信長と長い抗争を繰り広げた石山合戦。本願寺の跡地に築かれた大坂城を拠点に、豊臣方が徳川方を迎え撃った大坂の陣。そして徳川大坂城の炎上とともに、幕府が滅びた戊辰戦争。大坂が舞台となった3つの戦いの共通点は。 宮本:「戦いはいずれも城の守り手の敗北に終わるが、戦争終結後、大坂という場所は、勝者によって次の時代も使われていく。勝者の行動から大阪がきわめて重要な場所だったことが伝わってくる。重要性が低かったら、戦いが終わった時点で歴史の舞台は他の場所へ移り、大坂の歴史は途絶えたはず。大坂城が何度も戦火に見舞われたのは、つねに大坂が要地であり続け、権力者にとって魅力的だったからだ」 ──時代が移っても、大坂の重要性は変わらない。 宮本:「信長は天下統一の拠点として、安土の次は大坂だと考えていたフシがある。信長の目論見を豊臣秀吉が受け継ぎ、大坂城を築く。徳川幕府も大坂の陣で豊臣家を滅ぼした後、落城した大坂城を荒れたまま放置することはなかった。豊臣が城を構えた同じ場所に、すぐさま豊臣大坂城をしのぐ徳川大坂城を築き直す。西日本の大名たちに徳川の威信を見せつけようとした」 ──やがて幕末を迎え、その徳川幕府を倒すのが、長州や薩摩など、西国の雄藩だった。 宮本:「明治維新で最終的には東京が首都になるが、新政府軍がいまだ江戸を掌握し切れない時点で、先に大坂が新政府軍の手に落ちた。このとき、大久保利通や岩倉具視らが、これからは海に面している大坂が国政の中心地になるべきとして、都を京から大坂へ移す遷都構想を温めていた」