『光る君へ』藤原隆家が指揮を執った「刀伊の入寇」。なぜ<世に知られたツッパリ野郎>隆家が的確にエマージェンシー対応を果たせたのかというと…
◆道長も一目置いていた存在 藤原隆家といえば、中関白といわれた摂政関白藤原道隆の子、内大臣藤原伊周と一条天皇の皇后定子の弟である。 『大鏡』に「世の中のさがなもの」(世に知られたツッパリ野郎)と書かれ、『栄花物語』には誤認とはいえ花山法皇に矢を射かけさせて袖を貫き、長徳2年(996)の〈長徳の変〉の原因になったと書かれた、無頼派の貴族である。 〈長徳の変〉によって中関白家は自滅の道を歩み、道隆の弟の左大臣藤原道長が名実ともに政治の実権を握った。 隆家は出雲権守への左遷が解けて帰京した後も、権力者の道長に対して一歩も引かない度胸でいろいろなエピソードを残し、道長も一目置いていた。 しかし政治的には恵まれず、中納言に留まるうちに目を病んで、唐人の医者に診てもらうために大宰府に下っていたのである。
◆『大鏡』による隆家のエピソード 病気治療中とはいえ『大鏡』によると、彼は「筑後(福岡県・佐賀県の一部)・肥前・肥後(熊本県)など九国の人に動員をかけて、大宰府の内に仕える人も動員して戦わせた」とあり、戦後には戦闘に加わった豪族たちへの恩賞を上申し、さらに拉致された人々を帰還させた高麗使には砂金300両を送るなど的確な対処をおこなっている。 どうやら権帥として支配下の人々をがっちり掌握していたので、エマージェンシー対応が可能だったらしい。 事件のしっかりとした記録が残されているのも、対応したトップが隆家だったからということが大きいだろう。 また、実資は道長に批判的で、隆家を高く買っており、九州への下向についてもかなり骨を折っていたようだ。 そのため、隆家は、上申が正しく伝わるように実資に書信を次々に送り、実資はそれを日記に記録していたらしい。 ※本稿は、『女たちの平安後期―紫式部から源平までの200年』(中公新書)の一部を再編集したものです。
榎村寛之
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