コンセプトは「西安の夜市」…新大久保の怪しげな路地に佇む「張小記」で味わった“ザ・西安庶民料理”の数々
現代ビジネス「北京のランダムウォーカー」でお馴染みの中国ウォッチャー・近藤大介が、このたび新著『進撃の「ガチ中華」』を上梓しました。その発売を記念して、2022年10月からマネー現代で連載され、本書に収録された「快食エッセイ」の数々を、再掲載してご紹介します。食文化から民族的考察まで書き連ねた、近藤的激ウマ中華料理店探訪記をお楽しみください。 第14回は、新大久保「張小記」で味わった、思い出の西安庶民料理――。 【写真】『進撃のガチ中華』出版記念インタビュー「中華料理の神髄とは何か?」
都庁の「下町」新大久保
まだ日本がバブル経済の余韻に浸っていた1991年3月、当時の日本一の高さ(243m・48階建て)を誇る東京都庁が、西新宿に落成した。日本を代表する建築家・丹下健三氏が設計し、総工費1569億円をかけて、「現代版ノートルダム大聖堂」を完成させたのだ。 周囲を睥睨(へいげい)する荘厳な威容は、まさに「首都の顔」にふさわしいものだった。翌月から、第一本庁舎、第二本庁舎、都議会議事堂の3棟で、約3万9000人の職員が業務を開始した。 古今東西、宮殿が完成すれば、その周囲に「下町」が築かれる。その一翼を担ったのが、新・東京都庁から北東約1kmの地域に広がる新大久保だった。 かつ興味深いことに、この街はアジアの国際都市として発展していった。山手線の新大久保駅を降りると、そこはもうどこの国だか分からない。 こうした現象は、中国の古都・長安(現在の陝西省の省都・西安)も同様だった。8世紀前半の盛唐期の長安は、当時世界最大規模の100万都市だったが、皇帝が住む大明宮がある城内に、10万人が暮らす外国人街が築かれていた。
新大久保駅階段のプレート
そんな新大久保駅のホームに、夕刻に着く。各国の若者たちに混じって階段を下りると、途中の壁面に、日本語と韓国語の刻印プレートが掛かっている。 〈 カメラマンの関根史郎氏、韓国人留学生の李秀賢氏は、2001年1月26日午後7時15分頃、新大久保駅において線路上に転落した男性を発見し、自らの身の危険を顧みず救助しようと敢然と線路に飛び降り、尊い命を落とされました。 両氏の崇高な精神と勇敢な行為を永遠にたたえ、ここに記します 〉 通行人の多くが気づかずに通り過ぎるが、私はこのプレートの前を通るたびに、一度立ち止まって手を合わせる。22年前、この事故を取材した時のことを思い起こしながら。 李秀賢君は日韓友好の象徴のように称えられ、通っていた日本語学校で営まれた追悼式には、当時の森喜朗首相も弔問に訪れたのだ。急遽、釜山(プサン)から来日した母親は声を詰まらせ、「息子を誇りに思う」と述べた。 新大久保駅の改札を出ると、大久保通りが東西に伸びている。新大久保の街は、この通りを中心に、放射線状に広がる。 東側、すなわち大久保通りを山手線の内側に入っていくと、そこは東京最大のコリアタウンである。コロナ禍と日韓関係の悪化で、一時は鳴りを潜めていたが、コロナ禍が明けたのと、昨年5月に尹錫悦(ユン・ソンニョル)「親日政権」が誕生したことで、再び活況を取り戻している。 それに比べて、西側はかつてはひっそりとしていた。しかしこの頃は、無秩序に広がりを見せ始めている。特に大久保通りの南手で、「ガチ中華」と同様、「ガチベト」「ガチタイ」「ガチネパ」……と呼ばれるレストラン群が、雨後の筍(たけのこ)のごとく出現しているのだ。