「三条天皇に退位迫る」道長の溢れ出す大きな欲望。人事を巡って2人はデッドヒートを繰り広げる
というのも、三条天皇が娘との間に皇子を産んでくれれば、次の天皇に敦成親王が即位したときに皇太子に据えられる。「天皇も皇太子も自分の孫」という盤石な体制を築くには、三条天皇はキーマンであり、むげにはできなかったのである。 だが、三条天皇と妍子の間に生まれたのが、女の子だとわかると、道長はもう待ってはいられなかった。あからさまに退位を迫るようになる。 ■妍子の子が娘とわかって落胆する道長 道長の次女・妍子が三条天皇との間に、禎子内親王を産んだのは、長和2(1013)年7月6日のことである。藤原実資は翌日7日分の日記として『小右記』に、そのときの道長の様子について記述している。
『小右記』によると、実資は養子である資平(すけひら)から「相府、已に卿相・宮の殿人等に見給はず。悦ばざる気色、甚だ露はなり」と報告を受けたという。意味としては、次のようになる。 「道長殿は、公卿や中宮の殿人にまったく会っておられません。あからさまにお喜びではない様子でした」 その後、道長は三条天皇に退位を迫るようになることを思えば、もし皇子が生まれていたならば、自身の運命は違ったと三条天皇は考えたかもしれない。
だが、そうなれば、愛する娍子との間に生まれた敦明親王たちは、たちまち軽視されることになっただろう。それは、かつて一条天皇と定子との間に生まれた敦康親王の運命を見てもわかる。 どう転んでも追い詰められてしまう、三条天皇。道長の健康悪化くらいしか打開する道はなさそうだが、自身が眼病を患ってしまう。 道長は眼病を患う身では政務は難しいとし、また内裏で度重なる火災が起きていることからも「天道が天皇を見限ったのだ」として、公然と退位を迫っている。
■三条天皇に望んだのは退位だけではなかった それからというもの、道長は三条天皇に事があるごとに退位を促すようになる。長和4(1015)年10月2日には、実資が養子の資平から「三条天皇が言うには、この何日か道長からしきりに譲位を迫られているとのことです」と聞く。 だが、道長の要望はそれだけにとどまらなかった。資平が聞いた話によると、道長は三条天皇にこんなことも言ったのだという。 「当時の宮たちは東宮に立てるわけにはいきません。その器ではないからです」