「三条天皇に退位迫る」道長の溢れ出す大きな欲望。人事を巡って2人はデッドヒートを繰り広げる
即位するやいなや、道長をコントロールすべく関白に据えさせようと何度も要請したり、人事で主導権を握ろうとしたりするなど、三条天皇のアグレッシブさには、道長も面食らったことだろう。 特に、自身の娘を中宮としながら、長年の妻である娍子も皇后にするという「一帝二后」を仕掛けてくるとは、想像すらしなかっただろう。「道長に退位へと追い込まれたかわいそうな天皇」というイメージが強いが、実際には、道長に屈しまいとさまざまな手を打っていることがわかる。
除目において道長と三条天皇の意見が対立することもしばしばだった。 寛弘8(1011)年12月17日から始まった除目では、三条天皇が長く連れ添っている娍子の異母弟にあたる藤原通任を出世させようとした。蔵人頭に抜擢した通任を、さらに参議に上らせようとしたのだ。その代わりに、後任の蔵人頭に、道長の3男にあたる顕信をあてようとした。 だが、道長はそれを固辞。その後、顕信は出家してしまう。父の道長に出世を阻まれて絶望したという説もあれば、行願寺の行円の教えに感銘を受けたという説もある。いずれにしても三条天皇の働きかけが、親子の不和を招いた可能性は高い。
三条天皇の人事への介入はその後も続き、長和2(1013)年にも、6月23日に行われた小除目にて、三条天皇は藤原懐平を権中納言に引き上げようともくろんだ。娍子の立后の儀が開かれたときに、道長のプレッシャーに屈せずに、参加した数少ない公卿の1人が、懐平だった。 道長の5男にあたる教通(のりみち)を権中納言に任ずるのと引き換えに、三条天皇はこの懐平も「東宮司として自分に仕えてくれた」という理由で、権中納言に引き上げようとした。
道長はこれに反対し「中納言の数が7人になるのは多すぎる」としたが、三条天皇は「やはり懐平も加えようと思う」といって譲らず、押し切っている。 ならば、と道長は、嫡男の頼通も権大納言に出世させようと、三条天皇に働きかける。三条天皇が拒否しようとするも、「頼通も東宮司として仕えていた」という理由づけで、説得に成功している。 まさにデッドヒートだが、三条天皇からすれば実権を握る叔父を完全に敵に回すのは得策ではないし、道長としても、娘を嫁がせている以上、強くは出られない。