そうだったのか…!意外と知らない「歴史的芸術作品」が生まれる「納得の構造」
推敲伝:自分という第一の観客とその拡大
しかも仮にそうした狂気・変態型の行為を芸術と呼んだとしても、当人含め誰かがそれを芸術と評価した時点で必ず一人以上の観客がいることになる。 誰にも見せない自分だけのための芸術でさえも、自分自身に芸術家と鑑賞者の一人二役を与えているだけだ。 その意味でもやはり芸術は厳密な意味で一人だけでなされることはない。 だが、この点は当の芸術家にさえ十分に理解されていない。孤高の天才が無から有を生み出すという神話の人気は根強い。駆け出しの芸術家ほどこの幻想にとらわれやすい。そしてこの種の勘違いによって芸術をめぐる悲喜劇が生まれる。 たとえば自分の作品を他人に評価されることを極端に嫌う人がいる。こうした人は、絵でも音楽でも小説でも評論でも、誰の目にも触れさせないことで孤高を保つ。それでいて、ときおり周囲の無理解を嘆くのだから不思議である。「そもそも君は誰にも理解されたくなかったのでは」と周囲も首をかしげるしかない。 そもそもどのような芸術であれ最低でも自分という観客・鑑賞者が存在する。 そのため芸術作品を制作する際には、必ず観客・鑑賞者の視点を意識する必要がある。とはいえ、このことは何も「芸術も商業主義に走るべき」と主張しているわけではない(そう捉えてしまう人は、本書でいう「経営」の意味をまだ理解できていない人か、この章だけ先につまみ食いして読んでいる人のどちらかだろう)。 むしろ現在の観客・鑑賞者の常識を揺さぶり、彼らを不安にさせ、彼らの視点を変えてしまうような、非・商業主義的な作品に高い芸術性が認められる。 その場合でさえ、想定される観客・鑑賞者を深く理解しないと狙いどおりの効果は得られない。そうした理由から、どんな芸術作品もまずは自分自身が最初の観客・鑑賞者となるわけである。 芸術家は、観客・鑑賞者の立場から作品を自己評価し、制作途中のデッサンを描き直してみたり、楽器から響いてくる音を調整してみたり、文章を推敲してみたりする。こうした一連の作業を高速化するために、マティスにいたっては、さまざまな色と形の紙を画鋲で仮止めすることで配置の効果を簡単に試せる「切り紙絵」の手法を編み出したほどである。 このように、初期段階では芸術作品は「二人目の自分」に向けて作られ、適宜修正されていく。そして次の段階として、観客・鑑賞者の対象範囲を「自分自身のみ」という最も狭いものから徐々に拡大していく。 出来上がった作品に対して少なくとも自分自身が高評価できるのであれば、他人もまた「もし自分と完全に同じ文脈を共有してくれれば」必ず高評価するだろう(実際には完全に同じ文脈を共有することは肉親でさえ不可能だが)。 たとえば小便器に『泉』という洒落た題名をつけて、一流美術館に展示したとしよう。 その場合でも、学芸員が「なるほどこれは網膜を刺激する華美な絵画や彫刻に対して、日常の中に美しさはあるという、観念を刺激しているのだな」と芸術家自身も困惑するほど見事な解釈をしてくれて、美術商がこの作品の新規性に目をつけて喧伝し、それに踊らされたパトロンが巨額で作品を購入すれば、あっという間に歴史的芸術作品の出来上がりだ。