「部下や仲間がどんどん死ぬので、悲しいという感覚がなくなっていた」…玉砕前の硫黄島で零戦パイロットが敢行した決死の爆撃
誰がどこで死んだのかわからない
度重なる空襲と艦砲射撃によって航空隊は壊滅状態だった。7月6日、生き残った搭乗員にのみ帰還命令が出される。だが、 「それ以外の整備兵や通信兵ら各科隊員達のほとんどはそのまま硫黄島に留まり、翌年2月の米軍の上陸戦で陸兵として戦い、玉砕してしまったのです」(岩下氏) 角田氏は一旦、内地に帰還したものの、7月13日に零戦12機を率いて硫黄島に戻り、8月19日まで留まった。角田氏はいう。 「あまりにどんどん部下や仲間が死んでいくので、神経が麻痺し、悲しいという感覚がなくなっていた。誰かが戦死すると、その人の服や靴など使えるものはみんなでコッソリ山分けしていたような状態でした。いちいち感傷的な気分になっていたら戦えなかった。“本日の未帰還機は〇機!”の報告で全て終わりでした。 ラバウルの時は、亡くなった50人がどこでどのように死んでいったのか、それぞれの最後の瞬間を覚えています。でも、硫黄島では戦闘空域が広く、おまけに搭乗員の練度が低かったために編隊訓練ができなかった。それで、みんな私に付いてくることができなかったので、誰がどこで死んだのかわからないのです」
最後に決死の爆撃を敢行
その後はなす術もなく、海軍は特攻作戦に切り替えていく。昭和20年2月21日、千葉県香取基地を第2御盾隊の艦上爆撃機と零戦計32機が飛び立った。爆弾を抱き、体当たりで護衛空母「ビスマルク・シー」を撃沈、空母「サラトガ」を戦闘不能にしたが、44名が戦死した。 最後に海軍は決死の爆撃を敢行している。2月24日午後8時過ぎ、千葉県木更津基地を飛び立った1機の一式陸攻(陸上攻撃機)が硫黄島上空に到達した。 同機には根本正良中尉(平成14年没)以下3人が搭乗していたが、偵察員だった一飛曹の山田巌氏(80)は語る。 「島の東海岸の沖には、アメリカの艦船が重なり合うようにうじゃうじゃいました。浜周辺にアメリカ軍が上陸を敢行していましたが、まだ摺鉢山は我が軍が死守していたし、島の北側も確保していました。 それは上空から見て、赤く輝く光の位置でよく分かりました。島の東側から内陸に向って数え切れないくらいの光の筋が途切れることなく流れており、反対側からも外に向って光の筋が出ていた。摺鉢山でも、双方から無数の光の筋が見えましたから、我が軍も反撃していたのです。その光の中に赤い筋が見え、アメリカ軍が火炎放射器で攻撃しているのも分かりました」