「命令に従った」は通用しない 問われる個人としての戦犯~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#44
第一次大戦以前はなかった「個人の責任追及」
高澤准教授「戦争が終わった後、個人が責任追及されるのは、第一次世界大戦以前はなかったんですね。例えば日清戦争や日露戦争の場合、終わったら講和条約を結んで、戦争犯罪人を出したり処罰したりというのはなくて、賠償金を払ってそれで許してくださいねという流れですが、第二次世界大戦以降に関しては、戦争が終わって、国家も動いたかもしれないけれども、個人としてもちゃんと責任を取りなさいということです。個人が責任追及された最初のケースがドイツと日本ですので、それが現在の国際司法裁判システムにも大きく作用しています」 〈写真:東京裁判(米国立公文書館所蔵)〉
個人の責任問われ”驚き”
高澤准教授によると、捕虜の扱いを定めたジュネーブ条約違反の場合は、当然その実行者も条約違反になるが、第一次世界大戦まではその責任を誰が負うかというと、個人ではなく国家が負ったという。国家が肩代わりして賠償金を払うなり、国家責任という形をとり、個人が裁かれるということはなかったが、第二次世界大戦以降、特にポツダム宣言やドイツの場合は、個人が処罰された。 高澤准教授「今は犯罪だから個人として裁かれて当然だろうっていうふうに一般的には認識されていますが、横浜裁判の当時、被告の人たちからすると、個人個人の責任追及というのはされないのが前提の世代だったわけですよね。たまたま日本が負けて、ポツダム宣言で戦犯裁判が開かれて、その裁判で初めて、その現場にいた実動部隊も裁かれるのかということで、びっくりしたような状態だった。なんでというような不満は、当事者からするとあったのではないでしょうか」 〈写真:横浜軍事法廷(米国立公文書館所蔵)〉 「命令に従っただけなのに、何故戦犯に問われないといけないのか」という戸惑いは、多くの被告たちが弁護人に訴えた文書からも伝わる。日本はジュネーブ条約を批准はしていないが準用していたので、捕虜虐待は不法行為にあたる。それを知らされることもなく、戦闘行為の延長という感覚で捕らえた米兵を処刑してしまった兵士たち。命令が適法でなければ海軍の命令の規定からもはずれる。個々人がした事の責任を追求された時、「命令に従った」は免罪符にはならなかったのかー。 (エピソード45に続く) *本エピソードは第44話です。