北朝鮮による拉致から47年…横田めぐみさんの母・早紀江さんが振り返る“あの日”までの日常
中学1年生で行方不明となり、後に北朝鮮に拉致されたことがわかった横田めぐみさんは、今年10月に60歳の誕生日を迎えた。 【動画】2002年10月15日を覚えていますか? 北朝鮮が日本人の拉致を認め謝罪してから、すでに22年が経過。政府はすべての拉致被害者について〈必ず取り戻す〉としているが、めぐみさんをはじめとする被害者12名(※)は、いまだ帰国を果たせていない。 本連載では、毎年12月10日から始まる「北朝鮮人権侵害問題啓発週間」を前に、拉致被害者の家族の思いに触れ、拉致問題の現状を改めて考える。今回は、日本で、“普通に”暮らしていためぐみさんはどのような女性であったのか、母・早紀江さんが回想する。(第1回/全6回) ※ この記事は横田めぐみさんの母・早紀江さんが綴った『めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる』(草思社文庫、2011年)より一部抜粋・構成。 ※ 日本政府が北朝鮮による拉致を認定した人のうち安否がわからない人数。拉致された可能性を排除できない行方不明者は12名以外にも存在している。
「広島に帰りたい」と言ったことも
めぐみが失踪したのは、新潟市立寄居中学1年生の2学期のことでした。 私の主人は定年になるまで日本銀行に勤めており、在職中は何度か転勤がありました。私と結婚する前の札幌から始まって、名古屋、東京、広島、新潟、東京、前橋、そして東京勤務を最後に退職しました。 主人が広島支店から新潟支店に異動となったのは、昭和51(1976)年7月23日、めぐみがいなくなる1年余り前のことです。 私たち夫婦と長女のめぐみ、めぐみとは四つ違いの双子の弟の一家5人は、新潟市水道町の木造一戸建ての行舎に住むことになりました。 市の中心からさほど離れていなかったのですが、海岸のすぐそばで、家から歩いていくと、まもなく日本海に出ます。近くには移転した新潟大学理学部の跡地があり、防風林の松林が続いていて、夜になると、辺りは真っ暗になります。 瀬戸内海に面した明るい広島から来ただけに、「寂しいところだなあ」という印象を受けました。私が口に出してそう言うと、新潟のお友だちは「賑やかな夏に、そんなことを言っていたら駄目よ。雪が降ったら、どんなに寂しいか分からないわよ」と笑いながら言いました。 めぐみが「お父さん、いつまで新潟にいるんだろう」と聞くので、「今まで、一つのところには4、5年だから、今度もそのぐらいいることになるでしょうね」と言うと、「エーッ」と声をあげていました。「広島に帰りたい」と言ったこともあります。 私自身、「寂しいところね」などと言ってしまったのがいけなかったのですが、広島には仲の良い友だちが大勢いましたから、新潟に移って早々は、めぐみもずいぶんと心細かったことと思います。思春期にかかってきて、自意識が出てきたのか、ちょっと「おすまし」になったような、人見知りをするようになった頃でもありました。