北朝鮮による拉致から47年…横田めぐみさんの母・早紀江さんが振り返る“あの日”までの日常
友だちも増え、みんなでバドミントン部へ
お屋敷町と言うのでしょうか、その辺りには立派なお宅がたくさんありました。私たちの家と左隣のお宅は昭和20年代に建てられたもので、「海の家」のような感じの、だだっ広い平屋の家でした。冬には海鳴りが聞こえて、夜など雨戸がガタンゴトンと、ものすごい音で鳴りました。 近くに銀行の集合アパートの行舎があったので、「横田さんも、こちらに引っ越さない?」と、アパートのほうに移っていった家族の方に言われたこともありますが、それまでの行舎はアパートと言うかマンションと言うか集合住宅でしたから、子どもたちはこの広い庭が気に入って、バーベキューをしたり、バドミントンをして走りまわっているのを見て、やはりこういうことのほうが大事だなと思って、よそに移ることはしませんでした。 庭は砂地でしたけれど、本当に広くて、土いじりが好きな私も大喜びで植木やチューリップや水仙の球根をたくさん買ってきて植えました。 めぐみは小学校6年生の2学期から市立新潟小学校に転校しました。もともと明るい娘でしたから、同じ銀行に勤める方のお嬢さんや、NHK新潟支局に勤める方のお嬢さんと仲良しになり、そのうちに、だんだんと友だちも増えてゆきました。 そして翌52(1977)年4月、娘は寄居中学に入学し、バドミントン部に所属しました。 めぐみは幼稚園のときからクラシックバレエを習っていて、また、歌を歌ったり、絵を描くのが好きでしたから、そういう方面のことをやるのかなと思っていましたが、仲良しがバドミントン部に入ったので、みんなで一緒にやろうよということになって、娘も同好会に入るような気楽な感じで入部したようです。入ってみると、練習は厳しかったようですが、一所懸命やっていました。
お天気のいい日、娘はいなくなった……
娘がいなくなった日は、案外暖かく、お天気のいい日でした。 バドミントン部でダブルスを組んだ方が毎朝迎えに来てくれており、その日も玄関まで誘いに来てくれました。暖かいとは言っても、クラブの練習を終えて帰ってくる頃には冷えるだろうからレインコートを持っていったほうがいいと思い、廊下を追いかけて玄関のめぐみに手渡そうとしました。白っぽいレインコートです。 めぐみは「どうしようかなあ……今日はいいわ。置いていくわ」と言いました。確かお友だちもレインコートは着ていなかったと思います。 めぐみは「行ってきます」と言って、友だちと2人で門から出ていきました。それが、娘を見た最後でした。
横田早紀江