なぜ村田諒太は王座陥落したのか。封じられた“三種の神器”
村田に本当に勝機はなかったのか?
村田は判定に物議を醸したアッサン・エンダムとの最初のタイトル戦に敗れた。陣営は、村田を苦しめたエンダムのステップワークと手数の多さを参考にしていたのだ。ブラントは、エンダムよりも、スピードとパワー、スタミナが、若干上。しかも、打たれ強さがある。それでも強打の村田に対して、ゴングと同時に好戦的に対峙するには、勇気がいったと思う。全米のトッププロスペクトボクサー(成長株)と評価されながらも、村田との指名挑戦権を捨てて、挑んだスーパーミドル級でのWBSS(ワールドボクシングスーパーシリーズ)に敗れ、もう後のなくなっていたブラントは、このタイトル戦にすべてを懸けていたのだ。 試合前に村田陣営の共同プロモーターであるトップランク社のボブ・アラム氏が、早ければ来春にも、東京ドームで、元統一王者、ゲンナジー・ゴロフキン(カザフスタン)と戦うというビッグマッチ構想をアナウンス。この試合は、その東京ドーム決戦への序章のような位置づけになってしまっていた。その東京ドーム決戦は、32歳の村田にとって勝っても負けても、ボクシング人生の集大成となるはずだったが、彼は、先にある夢に浮つくような性格ではない。 だが“次のある村田”と“崖っぷちにいたブラント”の置かれた立場の違いが、12ラウンドの戦いに凝縮されていたのかもしれない。 村田は試合後、ボクシングの幅がなかった、と自虐的にコメントした。勝負の世界に“たられば”は禁物だが、村田に勝機はなかったのだろうか。 飯田氏は、こんな疑問が浮かんだという。 「もっと早い段階から相打ち覚悟でガツガツといっても良かったと思う。すると後半にブラントのスタミナが切れていたのかもしれない。なぜ、行かなかったのだろうか。ブラントの対策への対応方法はいくつかあったと思う。ひとつはステップワークに対するステップワーク。足で、もっと追い、ロープや、コーナーにつめて、ワンツーを打ち込みたかった。おそらく、それはやろうとしてできなかったのだろう。とにかく下半身、足が動いていなかった。もうひとつは、右ストレートが当たらないのなら、それを当てようとせず、他のパンチに打開策を求めること。ブラントは、ワンツーに対して、その打ち終わりに2発、3発と返してきた。そこに左のフックで潰しにいってもよかったと思う。ワンツーからの左のフック。当たらない右を当てようとするんじゃなく、フェイントでいいので、他のパンチで崩そうと考えるべきだった」 とびきりの“ボクシング脳”を持つ村田のことだ。頭では、すべてを理解していても、体が言うことを聞いてくれなかったのではないか。そしてリング上で、その逆境を解決するには、3分×12ラウンドでは時間が足りなかったのだ。それが、日付と場所を決められて対決する、待った無しのボクシングというスポーツの残酷さではある。 試合後、ボブ・アラム氏は、ブラントとの再戦の可能性について言及している。だが、村田は「再戦を要求する内容じゃなかった」と、一歩、引いた。 ゴロフキンに勝ったサウル“カネロ”アルバレスを頂点とするミドル級戦線のトップステージから脱落してしまったことは事実だろう。ここから再びタイトル戦線に殴り込むためには、気の遠くなるようなステップが存在するし、何しろ村田自身のモチベーションの問題もある。そう考えると、もし村田が再起を決断して場合の戦う理由のある選択肢としてはブラントとの再戦がベストなのだろう。 飯田氏は、再戦した場合の勝機について「もう一度、仕切り直せば、同じ展開にはならないと思う。楽しみな試合になる」と予想する。戦術、戦略を駆使されて試合には完敗したが、心まで折られた敗北ではない。 元チャンピオンの肩書きとなった32歳のボクサーは今、何を思う。