道長が嘆き悲しんだ、我が子の「まさかすぎる行動」。人生順風満帆に見える一方で大きな葛藤も
長い間皇太子として過ごしてきた居貞親王は、三条天皇として、ついに帝位に就きます。この三条新帝の皇太子になったのは、彰子の子・敦成親王(4歳)でした。 ■敦成親王を帝位に就かせたい道長 三条天皇の母は、道長の姉・超子ではありましたが、道長が10代のときにすでにこの世を去っていました。道長の心中には、自らの孫である敦成親王をできるだけ早く帝位に就かせたい、との考えが芽生えていたのでしょう。 三条天皇は、道長に関白就任を打診しますが、道長は固辞します。前代に引き続き、内覧(天皇と太政官の間を行き来する文書を事前に閲覧できる)・一上(左大臣の異称。第一の上卿)のままでいたいと道長は主張したのです。
関白になってしまうと、一上の役目は、右大臣に移行してしまう。そうなると、議定(評議)にも参加できなくなります。また、関白になると、天皇の補佐を担当することになるのです。そうなるよりは、内覧・一上にとどまって、直接、政治運営に携わるほうがいいと道長は判断したのでしょう。 また、道長は、三条天皇が皇太子の頃に、娘・妍子を嫁がせていました。妍子は、1011年に女御となります。道長としては、次女・妍子が三条天皇の皇子を産んでくれたら、天皇との結び付きをより強固にできるうえに、時と場合によっては、その皇子を帝位にと考えていたのでしょう(しかし、道長の想いはかなわず、後に妍子が産んだのは内親王でした)。
順風満帆に見える道長の人生ですが、何もかも、自分の思い通りに事が運んだわけではありません。 1012年に、道長と源明子との間に産まれた藤原顕信(3男)が突如出家してしまうのです。顕信、19歳でした。 顕信は、革堂(京都にある天台宗寺院)の僧・行円を訪ね、その後、比叡山の無動寺に行き、慶命僧都を戒師として出家するのです。 ■道長が息子の出家に抱く葛藤 世を儚んだのでしょうか。『大鏡』によると、顕信の出家を知った道長は「悲しみ極まりないが、悔んでもどうしようもない。顕信が、父らの悲しみを知り、修行に励む心を乱しては、哀れだ。幼い頃、彼を出家させようとしたが、本人が嫌がったので、強制はしなかった。子どもの1人くらい法師になっても仕方のないことと諦めよう」と述べたとのことです。