『バッドボーイズ RIDE OR DIE』なぜアメリカで大ヒット? ウィル・スミスの捨て身の表現
ウィル・スミスとマーティン・ローレンス主演による、1995年公開の第1作から、じつに足かけ29年となったアクション映画『バッドボーイズ』シリーズ。マイアミの激化する犯罪との戦いを、エクストリームなアクションや主演コンビの軽快なユーモアとともに描き、観客の支持を勝ち取っている。その第4作『バッドボーイズ RIDE OR DIE』が、アメリカ本国で驚きの大ヒットを果たした。 【写真】『バッドボーイズ RIDE OR DIE』場面カット(複数あり) ウィル・スミスといえば、2022年にアカデミー賞授賞式における「平手打ち」騒動で物議を醸した経緯がある。キャリアの下降が危惧されたウィル・スミスだったが、復帰作となる本作『バッドボーイズ RIDE OR DIE』が、この度興行的な成功を収めたことで、スター俳優として復活を果たすこととなったといえるだろう。 それでは、いったい本作は何が評価され、観客の心を掴むことになったというのか。ここでは、作品や社会を巡る背景とともに、その本質部分へとフォーカスしていきたい。 もともと人気ラッパー「ザ・フレッシュ・プリンス」としてキャリアをスタートさせたウィル・スミスが、人気コメディアンのマーティン・ローレンス、アクション映画監督のマイケル・ベイとともに、映画界で大きなブレイクを果たしたのが、『バッドボーイズ』第1作だった。スミスはその後、『インデペンデンス・デイ』(1996年)、『メン・イン・ブラック』(1997年)、『アイ・アム・レジェンド』(2007年)などの大ヒット作で順風満帆にスターダムを駆け上り、ハリウッドになくてはならないまでの存在となった。 そんなスミスを『バッドボーイズ』に引き入れたのが、すでに出演を決めていたマーティン・ローレンスからのアプローチだったのだという。2人はお互いの存在を認知していながらも面識がなかったが、リスペクトを払い合いながらそれぞれに主演をこなし、実生活での友情をも築き上げていった。その意味で『バッドボーイズ』シリーズは、荒唐無稽なフィクションでありながら主演2人の人生をあたかも象徴するようなシリーズにもなっていったのだ。 第2作『バッドボーイズ2バッド』(2003年)から大きなブランクを経て、監督がマイケル・ベイからアディル・エル・アルビ&ビラル・ファラーに交代した第3作『バッドボーイズ フォー・ライフ』(2020年)では、マイアミ市警の麻薬捜査官のコンビの活躍を、コントのような掛け合いとハードなアクションとともに描く内容は継続させながらも、「フォー・ライフ」というタイトルが象徴しているように、ライフステージの変化や、人生そのものを考えさせるようなニュアンスが加わっている。 同監督による本作『バッドボーイズ RIDE OR DIE』が選び取ったものもまた、「人生」を追求するテーマだった。前作で自分の存在が揺るがされたマイク(ウィル・スミス)は結婚式を挙げ、マーカス(マーティン・ローレンス)は家庭人として家族を大切にしつつも、健康上の問題を抱えているという設定が、本作の脚本の起点となっている。 マーカスは体に不調が出ていても、好物のジャンクフードやスナック菓子がやめられず、TVアニメ『ザ・シンプソンズ』のホーマー・シンプソンのように、コンビニエンスストアでホットケースの中に長時間放置されているソーセージを使ったホットドッグをすすんで食べようとするなど、著しい不摂生を続けている。彼は出席したマイクの結婚式でついに倒れ、病院に運ばれて生死の境を彷徨うことになる。 死の淵から奇跡の生還を果たしたマーカスは、自分の行為を反省するのかと思いきや、この奇跡によって“魂のステージが上がった”と誇大妄想を抱き、死を恐れずに人生をより楽しんで生きようという境地に達する。それは結局、体よく同じ生活を続けようとする願望からきているように思えるところが笑えるのだが、一方で、やりたいことをせず食べたいものも食べられない人生に意味があるのかという、一つの考え方であることも確かだろう。家庭への責任があるとはいえ、それでも生きがいを失いたくないと願うマーカスの姿勢には、思わず共感してしまう観客も少なくないのではないか。『バッドボーイズ』シリーズとともに時代を生きてきた観客の人生にもまた、いろいろあるはずなのである。 そんなマーカスとマイクのコンビは、新たな事件を捜査する間に、ある陰謀に巻き込まれ、指名手配犯になるという窮地に追い込まれることになる。本作の見どころとなるスカイアクションや、熾烈な銃撃戦を経て、2人は次第に事件の真相へと迫っていく。アクション部分において特徴的なのは、銃撃の場面においてシューティングゲームの一人称視点を彷彿とさせるカメラワークや、それを超えて銃そのものの視点で戦闘を捉える箇所があるという点だ。 これは、「スノーリーカム」と名付けられたリグを俳優に装着させることで実現した、新たな撮影方法「スノーリーカムショット」が生み出した映像表現だ。観客の一部からは「このシリーズにはそのような先端的な実験は必要ない」という反応もあったようだが、新しいことに挑戦するのもまた「人生」の面白いところなのではないだろうか。 だが、より重要なのは精神面であるだろう。マイクは過去の出来事が影響し、重要な局面で怖気づくようになっている様子が、本作では描かれることになる。そのシーンでなんと、相棒マーカスがマイクの顔に、これまでの自分を取り戻させようと、何度も平手打ちをするのである。この平手打ち、明らかにウィル・スミス自身の平手打ち騒動を意識したものだろう。そうでなければ、あれだけのスキャンダルを想起させるような要素を、彼の復帰作に入れるはずがないからである。 もちろん、これは禊(みそぎ)の意味を果たすような性質のものではないだろう。授賞式での平手打ち騒動において、家族の身体的特徴を揶揄する言動に腹を立てたという彼の動機には同情できる部分もある。しかし、公的な場所……ましてや世界中の羨望の視線が集まるところで責任ある大人が暴力を振るうなどという行為は社会通念上許されるものではない。スミスが騒動以前に撮影していた『自由への道』(2022年)はかろうじて公開されたものの、それを理由にいままで出演を謹慎する状態に追い込まれるほどに、騒動の代償は重いものだったのである。 それでもスミスが人気スターとして復帰を果たすには、同義的責任とはまた別のところで、観客の応援が必要だったことも、また確かなのではないか。劇中で怖気づいてしまったマイクが一方的に何度も平手打ちを受けて勇気を得る描写は、一種の過激なユーモアであるとともに、間違いをおかした事実を受け入れながら、その上で立ち直っていきたいという、スミスから観客へのメッセージが含まれているように感じるのである。 ウィル・スミスが自身の落ち度を作中の一部の要素としたように、マーティン・ローレンスもまた、それに近いものを本作に登場させているように思える。ローレンス演じるマーカスが倒れて病院で目を覚ますシーンや、神に守られているかのような恍惚状態で、交通量の多い道路に飛び出して危険をおかす場面がそれである。 いずれも1990年代の話ではあるが、ローレンスは、熱中症により数日間昏睡状態に陥り、死の淵を本当に彷徨った経験があるほか、ロサンゼルスの交差点で銃を振り回し、意味不明の言動をしていたことが、広く報じられている。そのほかにも、暴力的な行為を何度か繰り返しているように、ローレンスは精神面での不安がつきまとう俳優であることは事実ではあるのだ。もちろん、彼のやったさまざまなことに拒否反応をおぼえる観客がいるのも無理はないだろう。 だがそれでも、ローレンスは俳優としてその後のキャリアを積んでいくことに成功している。その一因には、不安定な状態に陥ったローレンスを見捨てて切るようなことをしなかった『バッドボーイズ』シリーズという存在があったことも確かなのではないか。そのように考えれば、スミスの復帰作としての役割を本作が引き受けていることにも納得がいくのである。 アメリカという国は、一度人生で大きな失敗をしても、セカンドチャンスを与えようという社会的なコンセンサスがあることが知られている。もちろん、その失敗があまりにも軽蔑されるような性質のものであれば話は変わってくるが、大きな失敗は人生経験として、その人を成長させる部分があるという考え方もあるのだ。本作の自虐すら感じる捨て身の表現は、そんなアメリカ人の琴線に触れるものがあったのかもしれない。 人生を続けていけば、誰もが間違った選択をして、足を踏み外してしまうおそれがある。問題は、それが現実のものとなってしまった後で、自分の間違いを認めることができるのか、そして正しい道に復帰することができるのかという部分なのではないか。本作で描かれたマイクの立ち直りと、それを鑑賞した観客たちの本作への好意的な反応は、同じように人生をくぐり抜けてきた人間同士の共感が核となっているように思えるのだ。 その意味で、本作においてはウィル・スミスとマーティン・ローレンスのコンビだけでなく、多くの観客もまた、同じ時代、同じ時間を過ごしてきた「バッドボーイズ(悪友)」として、本作を眺めることができたということなのではないだろうか。
小野寺系(k.onodera)