学童疎開で特攻兵と交流 東京の長谷川直樹さん語る 長野県松本市
太平洋戦争末期に東京・世田谷から旧本郷村(現長野県松本市)の浅間温泉に学童疎開し、敵艦への体当たりを任務とした特攻兵と滞在先の旅館で交流した東京都世田谷区の長谷川直樹さん(90)が7月、都内で市民タイムスの取材に応じた。疎開から80年。「当時を知る仲間はずいぶん減った。伝えておきたい」と、特攻兵から届いた手紙や疎開中の暮らし、敗戦で180度変わった社会のありようを振り返った。 世田谷の学童疎開は昭和19(1944)年8月に開始。絶対国防圏とされたサイパンやテニアンが陥落し、本土空襲の激化が懸念される中、7校・約2500人が順次、浅間温泉へと移動した。 長谷川さんは当時、山崎国民学校の4年生。8月27日夜、校庭で壮行会を終えると夜行列車に乗り、翌朝松本駅に降り立った。チンチン電車で浅間温泉に移動し、旅館「小柳の湯」での暮らしが始まった。 本郷村内の学校は既に子供であふれ、隣村の岡田国民学校に通学。最初の朝食のみ山盛りの白米だったが、疎開中は常に空腹が付きまとった。ただ、正月だけは疎開学童を一般家庭で一晩受け入れる分宿が行われ、田舎の正月料理が振る舞われたという。長谷川さんも岡田村の大池家に宿泊。日誌に「農家の御恩は忘れぬぞ」と記し、交流は戦後まで続いた。 特攻兵が小柳の湯にやってきたのは2月ころ。20歳前後の青年十数人が旅館の3階に逗留し、陸軍松本飛行場に通っていたという。夕方になると学童と青年たちは風呂で一緒になり打ち解けた。「『夕飯が終わったら来いよ』と言われて部屋に遊びに行きましてね。兵隊さんたちは軍歌を歌っていました」 3月、大広間で隊員たちの壮行会が開かれ、親しくなった隊員から出立を前に「小柳の上を飛んであげるよ」と告げられた。翌日、エンジン音を聞いた学童たちが2階に駆け上がって窓を開けると、飛行機が温泉街上空に飛来し、旋回して翼を左右に揺らした。子供たちが万歳を繰り返す中、北アルプスの方角に消えていった。 その後、寮母の提案で隊員たちに激励の手紙を何度か送り、親しかった小林三次郎隊員から長谷川さん宛てに4通の手紙が届いた。発信元は満州や宮崎県。うち1通には「此の手紙が着く頃はきつと戦果が発表される事でせう...移動しますから返事は要りません。さようなら」とあった。 当時、隊員たちが特攻に行くことは理解していなかったという。戦後半世紀を経て新聞報道をきっかけに知り「あの人たちは体当たりして死んだんだ」とまじまじ手紙を読み返した。手紙は今も大切に保管している。 昭和20年春、世田谷の学童は内地への空襲に備え、松本周辺町村に再疎開。長谷川さんも上川手村(現安曇野市豊科)の吹上の湯に移ったが「勝つとばかり思っていた」日本は敗戦した。疎開中は東京大空襲すら知らされなかったが、11月に東京に戻ると新宿駅ホームに屋根は無く、明治神宮前を通過する乗客は誰も脱帽や敬礼をしなかった。 「戦中はいろいろな情報を知らなかった。一見平和に見えても、今また風向きがおかしい」と語り、過去を知る必要性を説いた。
市民タイムス