かつて子を捨てた贖罪か...ストリッパーを引退した一条さゆりがドヤ街の人々に向けた『母親のような優しさ』
釜ケ崎に対する好意的な気持ち
絆通信は82年から発行している。ホームレスや日雇いの人々は普段、自分の生い立ちを話したがらない。長年、ここで活動している「炊き出しの会」への信頼から、多くがインタビューに応じている。梅澤が話を聴いたのは21年末時点で188人になった。その一部は、『釜ヶ崎合唱団 労働者たちが波乱の人生を語った』(ブレーンセンター刊)にまとめられている。この街に暮らす人々の貴重な声である。梅澤は言う。 「社会的に評価されてきた人、有能だった人も結構いるんです」 話に耳を傾けているときよりも、取材ノートを閉じて鉛筆を置いたとき、いい話をしてくれることが多い。 彼女が一条にインタビューしたのは西成区内の病院ロビーだった。長椅子に腰掛けながら約3時間、話を聴いた。 「その後のことを思うと、まだ一条さんが元気なころだったんです。誘導しなくても、進んで話をしてくれました」 梅澤はインタビューするとき、鉛筆で簡単な似顔絵を描く。一条の顔を観察して思った。きれいで品のある女性だと。 一条は釜ケ崎に対して、好意的な気持ちを抱いている。梅澤はそう感じた。彼女がこう口にしたからだ。 「あたしもここまで来た人間。そして、釜ケ崎の人もここまで来た人たち。何かできることをしてあげたい」 「ここの人たちにお餅でも作ってあげたい」
母親のような優しさ
一条の語ったある体験談が、梅澤の印象に残っている。 釜ケ崎で1杯飲み屋をやっていたころ、彼女は店のカウンターに、握り飯を山のように積み上げていた。海苔を巻かない、真っ白な握り飯である。ここの客たちは飲んでドヤに帰り、翌朝早く起きて仕事を探し、老いた身体で力仕事に向かう。そんなことを続けていては身体を壊す。心配した一条は、店を出る客に握り飯を持たせた。ドヤでそれをほお張れば、少しは生きる力になると考えた。梅澤は言う。 「母が息子に接するような態度だったんではないでしょうか。あの人の優しさだと思います」 インタビューで一条は息子の清についてもずいぶん、話している。その息子を捨てた彼女は、釜ケ崎の労働者に、息子を思いやる母のように接していたのかもしれない。梅澤はそう感じた。 一方、ストリッパーとして華やかな暮らしをしていたころについて、一条はどう考えていたか。梅澤はこう考えている。 「未練はないと感じました。ただ、どこかのつぶれそうな小屋(劇場)を立て直してもらいたいと依頼された経験について話すときには、『よし、私がやってあげる、と出ることにしたの』とキリッとした表情をしました。プロの誇りを感じました」 取材中、一条がおびえる様子を見せるのが、梅澤は気になった。近くを通る人を、常に気にしていたらしい。人が近づいてくると、話をやめ、顔をこわばらせた。7年前のやけどが思い出されたのかもしれない。 稲垣が言うように、一条は男性にもてた。病院まで追いかけてくる男も少なくなかった。そうした者たちとのやりとりに、ほとほと疲れていたようだった。
小倉 孝保(ノンフィクション作家)