かつて子を捨てた贖罪か...ストリッパーを引退した一条さゆりがドヤ街の人々に向けた『母親のような優しさ』
1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。 【漫画】床上手な江戸・吉原の遊女たち…精力増強のために食べていた「意外なモノ」 「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。 『踊る菩薩』連載第110回 『「もう、ここしかないんです」...金も健康も後ろ盾も失った元ストリッパーに、権力と闘う「政治活動家」が手を差し伸べたワケ』より続く
普通が大切
一条が地元ミニコミ紙「絆通信」のインタビューに応じたのは、引っ越し直後だった。2ヵ月に一度(現在は3ヵ月に一度)、「炊き出しの会」が、主に支援者に向けて発行する手書きのミニコミだった。一条が紹介されたのは人気コーナー「こんにちは、がんばってます!」だ。 会のメンバーである梅澤晴美が一人で取材、執筆していた。日雇い労働者やホームレスの人たちから話を聞き、家族との別れやこの街に住むようになった経緯を紹介する。 梅澤は新潟県出身。学生だった70年代、ボランティアとして稲垣たちの炊き出しを手伝ったのをきっかけに、この街とかかわるようになった。 「自分のなかで、釜ケ崎には反権力という確固たるイメージがあったんです。それに憧れていたんでしょうね」 なんの伝手もなくこの街に入り、公園で炊き出しをしている人々に会い、そのまま支援活動に加わった。 最初にボランティアとして花園公園に来たとき、稲垣から「普通の格好で来てください」とくぎを刺された。梅澤がことさら男性のような服を着ていたためだ。過剰な意識は釜ケ崎の人々に伝わり、特別視していると見抜かれる。この街の人々は繊細なのだ。服装も態度も、「普通」が大切だと教えられた。