"猪武者"の引き際とは 広島城を明け渡した福島正則
『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の"城好き"で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。 【画像】天守閣や二の丸など色々な角度から見た広島城
賤ヶ岳の「七本槍」で異例の5000石
福島正則は永禄4(1561)年、豊臣秀吉の叔母を母に尾張国で生まれます。市松と呼ばれた幼少より、小姓として秀吉に仕え、天正6(1578)年、別所長治を攻めた播磨三木城の戦いで初陣を飾ります。 天正11(1583)年、秀吉が柴田勝家を破った賤ヶ岳の戦いでは敵将を討つ活躍を見せ、賤ヶ岳の七本槍のなかでも異例の5000石を与えられます。加藤清正らほかの6人は3000石でした。 小牧・長久手の戦いや四国征伐、小田原攻め、文禄の役などでも武功を上げます。しかし、朝鮮出兵の際、監察だった石田三成らの報告から秀吉が前線の諸将に激怒する事件が起こります。以来、三成や小西行長の文治派と加藤清正や福島正則中心の武断派の仲は険悪なものになります。
文治派と武断派
文治派は近江出身の官僚的な武将が中心で、秀吉の側室の淀殿につき、武断派は尾張出身の武将が中心で、秀吉の正妻・おねにつきます。この対立が秀吉の死後、家康が天下を取る遠因にもなります。 前田利家が死去すると、文治派と武断派のバランスが崩れ、福島正則は加藤清正や黒田長政らとともに石田三成襲撃を目論みます。淀殿が秀頼を産み、石田三成を中心とした官僚たちに豊臣政権が運営されていくことに我慢がならなかったのです。この時、武断派を取りなしたのが徳川家康で、これをきっかけに武断派は家康に急接近します。福島正則も養子の正之を家康の養女と結婚させるなど、家康との関係を深めていきます。
「三成を討つべし」
慶長5(1600)年、上杉景勝に謀反の動きがあると始まった会津征伐には家康軍に加わり、進軍。途中小山城において三成挙兵の一報を受け、会議が開かれます。世に言う小山評定です。従軍した武将の多くは大坂に妻子を残していたため、家康はこのまま会津に向かうか、反転して三成を討つか、三成方につくか?と問います。武将たちに動揺が広がるなか、正則が人質を捨てても家康公の先鋒として三成を討つべしと発言したことで、家康軍の流れができ、東軍が結成され、関ヶ原で家康軍の東軍と三成軍の西軍が激突します。 関ヶ原の戦いでは宇喜多軍と激しい戦闘を繰り広げ撃退。その功もあって、西軍の総大将毛利輝元の領地だった安芸と備後あわせて49万8000石を得て、広島藩を開きます。