記録する使命胸にシャッター切る 「埋もれた」被災地で 13年前混乱の中カメラ向けた市職員 #知り続ける
東日本大震災で津波被害に遭った千葉県旭市は、行方不明者2人を含む16人が犠牲になった。未曽有の災害で今起こっていることを「記録する」使命を胸に刻み、被災直後から復旧・復興の道のりにカメラを向け続けた市職員たちがいた。当時広報担当だった石田喜宏さん(50)もその1人。被災者の心情を察し当初はためらいを感じたが、それまでとは「桁違い」のシャッターを切った。同僚と撮りためた写真は市の記録誌や防災資料館の展示パネルに活用され、震災を伝えている。(銚子・海匝支局 橋本ひとみ)
「とんでもないことが」あちこちで向けたカメラ
震災の発生した3月11日午後、石田さんは内陸にある市役所で普段通り仕事をしていた。「ガタガタガタと窓が音を立て、経験したことがない揺れだった。職員も来訪者も多くの人が外に避難した」 太平洋に面する旭市は最大震度5強を観測。津波は複数回押し寄せ、関連死を含め県内で最多の犠牲者が出た。 石田さんを含む広報広聴班の職員3人は発生直後の状況を記録するため車で海方向に向かった。道路が割れて盛り上がり、車が引っかかるように立ち往生していた。液状化現象が起きていた。 持ち主と一緒に動かそうとしたが、人力ではなんともできなかった。近くではトラックも動けなくなっていた。あちこちで映像用のカメラを向けた。さらに車を進めると、津波が達した痕跡があった。道路には泥やがれきが散らばり、近くの家や店舗の建物が壊れていた。 「とんでもないことが起こっている」。危険と考えて引き返した。午後5時20分ごろに襲来した最大の津波の前だった。
その日は忙しく車で市役所と市中を行き来した。カメラを携え向かった現場で物資を運ぶ作業にも加わった。夜になり着替えのため帰宅。自宅に被害はなかったが、10歳と5歳だった子ども2人は余震を怖がっていた。妻は「私たちは大丈夫。父ちゃんはみんなのために頑張れ」と言葉をかけてくれ、胸に染みた。
ファインダーの向こうに涙拭う人の姿
犠牲者を伝える情報もあり、不安のまま翌日の朝を迎えた。前日に津波被害を確認した場所を再び訪ねると、あったはずの家屋がなくなっていた。「大変なことが起きてしまっている」。津波被害の集中した地域は建物の壁や窓が壊れ、泥や水でぬれた生活用品やがれきがあり、不明者の捜索や住民による片付けが進められた。 道路や農業施設、がけ崩れなどの被害現場では「住民や作業の邪魔にならないよう」心がけた。津波を受けた街でがれきに視線を落とし物を探す女性、相次ぐ余震の大きな揺れに泣いてしまう人も見掛けた。「どんな場面もどんどん(カメラに)収める。そのために積極的に現場に出向いていた」と石田さんは振り返る。 かつてない被災に直面した市内には、やがて多くの支援が届いた。プロ野球選手や大相撲の力士が市民とふれあうために来訪。市内外からボランティアが手伝いに来てくれた。石田さんらは避難所に連日足を運んだ。 生活への影響が続く中、時には前向きな市民の姿に励まされた。応急仮設住宅の入居開始から間もなく開かれた復興イベントで「ふるさと」の演奏が流れると、ファインダーの向こうに涙を拭う人の姿が写った。