記録する使命胸にシャッター切る 「埋もれた」被災地で 13年前混乱の中カメラ向けた市職員 #知り続ける
「被災者のためになるのか」当初は心の整理つかず
一方、当初からしばらくは被災を記録する役割に葛藤があった。「撮らないで」と言われたときは、すぐレンズを下げた。市役所職員であると知られ、撮影を断られたときもあった。 「家族や知り合いを亡くした住民もいる。避難所での共同生活、復旧に向けみんなが大変な中、メインの業務が写真や映像に収めることだった」。必要な仕事と理解したが、市役所職員として今すべきことなのか、被災者のためになるのかと思いを巡らせた。 帰宅すれば自分は普段通りの生活が送れることも、避難所に暮らす住民のことを思えば最初は心の整理がつかなかった。忙しさが重なり、最初の2~3カ月は複雑な気持ちがあった。 職場の上司や同僚が黙々と仕事をこなす姿を見たり、自身も仕事に地道に向き合ったりするうち、表現しがたい感覚は少しずつ消えていった。ちょうど応急仮設住宅への避難者の入居が始まり、避難所が閉鎖された時期だった。 「広報広聴班だけでなく、あのときはみんな『何ができるか』ということを考えていたのでは」。震災の約1年後まで石田さんらの職場の上司だった飯島正寛さん(現健康づくり課長)は思い返す。 当初から、後世に記録や記憶を残すことを意識したという。震災関連の話題を精力的に取材し、月2回発行の広報誌に掲載した。市民の明るい表情や地域を盛り上げるイベントも写し取り、復興の様子を伝えた。
一方、具体的な被害状況の写真は震災1年を特集した12年3月まで掲載を控えた。配慮が必要と判断したためだ。「少しずつ復興してきている中で、記憶を戻してしまうことになる」 市が発行した記録誌「被災地あさひ 被災から復旧、そして復興へ」には石田さんら職員が撮りためた写真を盛り込んだ。市内全戸配布を含め2万7千冊を作成し、公共施設や学校などに配布された。
日常の中に見える"未来"
石田さんは15年3月まで広報広聴を担当した。震災発生後に「桁違い」の量を撮影した中で「何気ない日常の中に未来やこの先が見えるような、そんな場面があったら撮るようにした」。 例えば、海辺に咲いた黄色のヒマワリや元気に遊ぶ地域の子どもたち。「途中から前向きになろうという思いもあったから」。自身の心模様も重ねた。他の写真も含め広報誌上に載らないものが圧倒的だったが、目に留まった光景にカメラを構えた。 石田さんは現在、総務課で主に防災・防犯を担当する「地域安全班」の班長を務める。防災訓練や避難訓練の計画、自主防災組織とのやり取りなどが業務だ。今月中旬には、能登半島地震の被災地である石川県珠洲市に数日間派遣され、避難所運営の支援業務に当たった。