ふかわりょうが“サイテー男”の小説に込めた思い 「B面があるからA面がある」その言葉の真意は
ふかわさん自身が経験したこと、感じたことをどのように出し分け、使い分けているのだろうか? 「僕自身、“原液”は1つしかない。テレビではこれくらい薄めて、ラジオではこれくらいの濃度で……と、あるのは濃度やフィルターの違い。 僕の奥底には、幼少期の頃から原液のようなドロドロッとしたものがあって、それの希釈の違いだけなんです。 たとえば、テレビだったら、自分がMCで出るときとゲストとして出るとき、自分の話をするときと人の話を聞くときなど、その濃淡はその瞬間瞬間で変わるものかもしれないけれど、その都度判断している。
ラジオ番組にゲストで出るといっても、その場にいる人が誰なのかによってどう振る舞うかが変わってくる。 どちらかというと音楽セッションに近い。こういう楽器が並んでいるんだったら、こういう音色で行こうと。 どこに行っても一緒のキャラクターで通せる人っているじゃないですか。僕は逆で、割と自動で周囲に合わせて変化するタイプ」と自身を分析する。 ■時代とともに変わるもの 「かつて『芸人は不幸であれ』とテレビプロデューサーが言っていた。それが1つの尺度だとしたら、30年前の不幸と、今の不幸は違うんですよ。もしくは、おもしろい不幸とおもしろくない不幸がある。
昔笑えていたものが、今は笑えなくなる。 何がおもしろいかは時代とともに変わる。 僕は、服装こそいつも同じものばかり着ていますが、流行に敏感な女の子と同じように、そういうものに敏感になりがち。ある種、職業病に近いですね」 そんなふかわさんも、今年でテレビの世界に入って30年という節目の年を迎える。 「テレビの役割も30年前とは変わってきたし、僕自身も歳を重ねて、今後は文章表現のウエイトが高まっていく予感があります。
アウトプットの場所によって、濃淡、希釈の割合は変わってくるんですけど、今後は、文章表現や書籍という舞台で表現する熱量や思い、機会は増えていく気がしている。割と重心が移動してきている」 ■ギリギリの縁を歩くのが楽しい 最後に表現者としてのふかわさん自身が、今の世の中に息苦しさを感じていないのか聞いてみた。 「ざっくりいうと、楽しんでいますね。そのギリギリの縁を歩くのが楽しいというか、無法地帯が一番楽しくないと思っているので。