プロ野球「昭和の乱闘」は激しすぎる…張本勲がバットを持って大暴れ!相手チームの監督は「暴力団のやる行為だ」と非難
一歩間違えば“刑事事件”
これで騒ぎも収まったかに見えたが、2死無走者で中川忠文球審が試合再開を告げた直後、張本が再びバットを手に脱兎のごとくグラウンドに飛び出し、二塁の守備に就いていたスペンサー目がけて突進するではないか。尾崎を先頭に東映ナインが慌ててあとを追い、最後はみんなで抱きかかえるようにして、ベンチに連れ戻した。 今なら退場は当たり前、一歩間違えば刑事事件になってもおかしくない暴れようだったが、それでも張本は退場にはならなかった。 退場を宣告しなかった理由について、中川忠文球審は「咄嗟のことで、どういうことになったのか、私にもよくわからない。これまでにないケースなので、慎重に判断した。もうひと騒ぎあったなら、張本の退場処分は考えたが、私としては退場にすべき状態ではないという見解をとって、そのままプレーを許した。張本選手はじめ、両チームの監督には厳重に注意した」と説明した。試合を司る者として毅然としたものが感じられず、歯切れが悪い。 「あのプレーは、両方ともチームのためにハッスルして起こったもので、米大リーグでは、よくあることだ。私の立場からは、どちらが悪いとも言い難いが、けっして奨励するという意味ではなく、お互いそれだけチームのため意欲を燃やしていれば、ああいうことも起きるかもしれない」という水原監督のコメントにも違和感を覚える人が多いはずだ。 一方、西本監督は「プロ野球選手としてのプライドもあったものではない。あんなことをされてはたまらない。暴力団のやる行為だ」と非難した。現代人の感覚はこれに近いかもしれない。
「野球できへんようにさすぞ!」
試合後、事態を重く見た中沢不二雄パ・リーグ会長が夜行列車で大阪入りし、調査を行った結果、中川球審の状況判断が悪かったとして処罰(内容は非公表)、水原監督に戒告的要望書を出す――の2つの措置を取り、張本に対しては、「体当たり自体については問題ない」と裁定。バットを持ってスペンサーに詰め寄った行為も、「暴力的行為と言うより、威嚇行為」と解釈し、「プレー以外の問題なので、直接連盟からは処置しない」と不問にされた。 要望書を受け取った水原監督は「ハリ、こういうのが来たぞ。バットを持って出ていったあとの行為は悪かった。それ以外は別に悪いことはなかったのだ。これからも大いにハッスルしていいんだぞ」と言い聞かせたという。大らかな時代だったことがうかがえる。 その後も張本は、1965年4月10日の東京(現・ロッテ)戦で、スパイクを立てて二塁に滑り込むラフプレーが原因で乱闘騒ぎになるなど、何度となくトラブルの主役になったが、23年間の現役生活で退場は1度もない。 巨人を経て、現役最後の2年間はロッテでプレーし、史上初の3000安打を達成。乱闘寸前の事態をド迫力の“止め役”になって鎮めたのが、1981年4月6日の西武戦だった。 2回、西武のルーキー・石毛宏典が奥江英幸から左手首に死球を受け、その場にうずくまった。直後、捕手が「バットだ(ファウル)」とアピールしたことから、怒った西武ナインがベンチを飛び出し、本塁付近でもみ合いになった。 だが、張本が「お前らいい加減にせんと、野球できへんようにさすぞ!」と一喝すると、たちまち全員シュンとなり、一瞬にして騒ぎは収まったという。
久保田龍雄(くぼた・たつお) 1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。 デイリー新潮編集部
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